四日、庚午、入夜小雨、(中略)

尾州水野右衛門大夫任下野守云々、称礼来携太刀、大隅引導也、対面了、

(後略)

五日、辛未、晴、早朝遣太刀於水野許了、(中略)水野送一荷鯉等、不慮芳志也、(後略)

→愛知県史 資料編10「1508(永正5)年部分」(実隆公記)

 4日(庚午)夜に入って小雨。尾張国水野右衛門大夫が下野守に任じられたということで、礼と称して太刀を携えて来た。大隅が案内して対面した。
 5日(辛未)晴れ。早朝に水野の元に太刀を送った。(中略)水野が1荷の鯉などを送ってきた。思いがけぬ芳志である。

永代売渡申候田之事
合弐貫参百文者

右、件田地、依急用有、同筆へた孫八殿ニ永代売渡申候、所実正也、但彼下地地本三斗代二ツ在所也、殊又在所さんた田迄売渡申候上ハ、地頭殿・御代官・公文・名主・御百性等御妨有間敷候、又ハいか用成子孫出来候共、違乱煩申間敷候、まして我々置て菟角時儀申間敷候、殊又天下一同徳政入来共、彼下地ハ入申間敷、若又田原殿徳政入候共、入間敷候、仍為後日証文状如件、

売主 神戸 青津二郎しんあん(花押)

買主 同 筆へた孫八

請見人 おかおこんの兵衛(略押)

     彦三郎 同子入道(略押)

     又七 平二郎(略押)

永正拾七年 庚辰 八月二日

→愛知県史 資料編10「青津二郎しんあん売券」(伝法寺文書)

 永代売却する田地のこと。合計2貫300文。右の当該田地は、急用により同筆へた孫八殿に永代売却します。これは間違いありません。但し、あの下地の地本は3斗代に2つが在所です。ことにまた、在所の散田まで売却するという上は、地頭・代官・公文・名主・百姓なども妨害してはなりません。また、いかなる子孫ができたとしても、異議申し立てはしません。まして我々においては、とにかく都合を言い立てることはなりません。ことにまた、天下一同の徳政があったとしてもあの下地には適用されず、もしまた、田原殿の徳政があったとしても適用されません。後日のためこのように証文とします。

敵味方預ヶ物・俵物并神田、為何闕所之地候共、不有異見候、門外江使入候事、竹木所望・郷質取立候事、一切令免許之上者、末代不可有相違者也、仍如件、

弘治参年

霜月廿七日

上総介

信長(花押影)

熱田祝師殿

→愛知県史 資料編10「織田信長判物写」(田島家文書)

敵味方の預かり物と俵物、並びに神田は、どのような没収地になったとしても、口出ししてはならない。門外へ使いが入ること、竹木の要求・郷質を取り立てること、全て免除する上は、末代まで相違はない。

敵味方預ヶ物・俵物并神田、為何闕所之地候共、不可有異見候、門外江使入候事、竹木所望・郷質取立候事、末代不可有相違者也、仍如件、

霜月廿七日

上総介

信長(花押)

熱田検校殿 参

→愛知県史 資料編10「織田信長判物」(馬場家文書)

1557(弘治3)年に比定。

敵味方の預かり物と俵物、並びに神田は、どのような没収地になったとしても、口出ししてはならない。門外へ使いが入ること、竹木の要求・郷質を取り立てることは、末代まで相違はない。

一氷上宮拝殿破損之時、大高城主水野大膳亮殿御内村瀬隼人勧進ヲシテ建立之時、コケラ葺ニフキ替、同神前之鳥居被建、大高村之大工也、鈴置善太夫正秀ト云者也、

天文十二 癸卯 年二月吉祥日 祝詞社主 吉長

→愛知県史 資料編10「氷上宮記(冊子)」(久米家文書)

 氷上宮の拝殿が破損したとき、大高城主水野大膳亮殿の家臣、村瀬隼人が勧進して建立した。その際、柿葺きに葺き替え、同じく神前の鳥居を建てたのは大高村の大工である。鈴置善太夫正秀という者である。

一本知新知万不入ニ可被仰付事、

一拙者知行之内并家中之者共、御国之衆へ致被官之義、無御許容之事、

一度々如申上候、河より東之領中内に候共、川より西候者、一書のことく相違有間敷事、

以上

天文十五年十月十六日 牧野田三郎 保成 判

朝三兵

雪斎

参人々御中

右之裏ニ 泰能 判

親徳 判

崇字 判

→静岡県史 資料編7「牧野保成条目写」(松平奥平家古文書写)

一、本知行・新知行何れも不入として保障されること。
一、私の知行のうちと家中の者たちがそちらの直参に被官として仕えることを、許容しないこと。
一、度々申し上げたように、河より東の領内は我々のものだが、川より西は書面のように相違があってはならないこと。

永代売申田地之事
合六百文目 坪土取

右彼田地者、緒川御城殿様へ米七俵向申候而失候間、彼借状相副、延命寺護摩領ニ現銭弐貫弐百文ニ永代売置申候所実正也、猶後々末代藤二郎子孫其外誰々ニ候共違乱申者候者、従緒川殿可有御成敗者也、然者、従彼田地毎年百文宛色成御納所候て、可有御引得、仍永代如件、

天文廿壱年 壬子 十月廿七日   小塚弥助(花押)

延命寺   寺中まいる     御使 ■取新右衛門

 彼田地者、従御城殿様御売候間、為何徳政行候共於此田者入間敷候者也、

(裏書)

右彼田地者、本米弐俵ニ我等かたへ向置、■戌より壬子まて本利七俵ニ成候間、弐貫弐百文ニ延命寺護摩領我等売置候所也、

信元(朱印・印文未詳)

→愛知県史 資料編10「小塚弥助売券」(延命寺文書)

 永代売却する田地のこと。合計600文目(坪土取)。右のこの田地は、緒川城の殿様へ米7俵向け(担保?)としていたものを失ったので、あの債務状を添付し、延命寺の護摩領として現金2貫200文にて永代売却するのは本当のことです。更には後々の末代、藤二郎子孫その他何人といえども、違反する者は、緒川殿より成敗があるでしょう。ということで、あの田地より毎年100文分の収穫を御納所へ入れて、収税して下さい。

河尻与三郎分内拾五貫文并斎藤分四貫文合拾九貫文事、為扶助申付候訖、全知行不可有相違者也、仍状如件、

弘治元 十二月廿八日 信長(花押)

坂井文助殿

→愛知県史 資料編10「織田信長判物」(酒井家文書)

 河尻与三郎分のうち15貫文と、斎藤分4貫文。合計19貫文のこと。扶助として申し付ける。全ての知行は相違があってはならない。

為合力、丹羽新十郎分之内、五拾貫文進之候、全不可有相違者也、仍状如件、

弘治 九月朔日

三浦対馬守 尭秀(花押)

坂井文助殿

→愛知県史 資料編10「三浦尭秀判物」(酒井家文書)

 合力のため、丹羽新十郎分のうち50貫文を進呈します。全て相違ないように。

当知行山中七郷之事

右、先規岡崎江令納所本成、百姓相隠之様、当年於有訴人、本帳之条、急度申付可令所務、惣別去年企可令検地訴訟之間、以印判領掌之処、于今検地云々、先本帳之分令所務、其上雖為何時可令地検、并竹尾源四郎百貫文地之事、於先年以下知当郷内出置之処、今度本帳面相顕之上、彼者過分之私曲明鏡也、百貫文地之内ハ、縦雖為河成、定勝江不相断、以各別之名職之内、恣非可引取儀也、然者源四郎令難渋者、拘置分以奉行人可相改、猶就及異儀之、百貫文之分、以当郷各別之名職可出之、其外野山・市場・屋敷等之事、如岡崎支配可申付、本帳出之上者、各名職相改可所務者也、仍如件、

天文廿三 十月十五日

治部大輔 判

奥平監物丞殿

→静岡県史 資料編7「今川義元判物写」(松平奥平家古文書写)

 当地行の山中7郷のこと。右は先に決めた岡崎へ納める本成年貢を百姓が隠匿したと今年訴人があった。本帳の件、取り急ぎ指示して徴収するように。総じて去年検地するようにとの企図が訴訟となったので印判によって掌握していたところ、今は検地という。先の本帳の分は徴収し、その上いつでも検地するように。同時に、竹尾源四郎の400貫文の土地のことは、先年下知によって当郷内に拠出していたところ、この度本帳面に出てきたのであの者が私的に過分益を得ていたことは明白である。100貫文の土地は、氾濫原であっても定勝へ断わりもなく、それぞれが別の名職内に自由に引き取ることはならない。ということで源四郎が渋っても、抱えている分は奉行人によって監査するように。さらに異議に及ぶならば、100貫文の分は当郷それぞれ別の名職に出すように。その他野山・市場・屋敷などのことは、岡崎支配のように指示するように。本帳が出た上は、それぞれの名職を改めて徴収するべきである。