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織田信長、熱田検校の所領を保護し、諸役を免除する

敵味方預ヶ物・俵物并神田、為何闕所之地候共、不可有異見候、門外江使入候事、竹木所望・郷質取立候事、末代不可有相違者也、仍如件、

霜月廿七日

上総介

信長(花押)

熱田検校殿 参

→愛知県史 資料編10「織田信長判物」(馬場家文書)

1557(弘治3)年に比定。

敵味方の預かり物と俵物、並びに神田は、どのような没収地になったとしても、口出ししてはならない。門外へ使いが入ること、竹木の要求・郷質を取り立てることは、末代まで相違はない。

コメント 8

  • 不可有異見候・・・「口出ししてはならない」ではなく、「口を差し挟むことはない」という逆の意味ではありませんか。

    末代不可有相違者也・・・「末代まで相違ないように」ではなく、「末代まで約束を破らない」ではありませんか。

    • コメントありがとうございます。この文書は、続けたアップした熱田祝師宛と内容がほぼかぶりながらも、写しである熱田祝師宛のほうが文意が通るという不可解な面を持ちます。そのような意味で判りにくい部分が多いのですが、今回ご指摘いただいた内容は禁制の具体的な宛先に疑義を呈するものなので暫定でお答えします。

      他の禁制と比較すると、この文書の意図は禁制であることが判ると思います(相続や譲渡に伴う文書だとご指摘のような文意のものもありますが、その場合は財産の内容と額面が記載されているのが通例なので)。禁制は寺社などに宛てて一旦出されますが、具体的な宛先は自軍となります。この場合、熱田検校は押し寄せる織田方軍勢にこの文書を提示して財産保障を訴えることとなります。

      私も本文書は首を傾げる解釈であり、限られた知識での推論になります。ご存知のことなどありましたらご教示下さい。

  • この文書は禁制でなないと思います。禁制の働きをしないわけではありませんが・・・。
    禁制は違反者には罰則を伴う命令であり、免許状は許認可事項を示した文書だと思います。
    似てはいますが、守護も目的語も、そして訳し方は全然違うと思います。
    禁制は、普通、一つ書きされる特徴がありますが、これは一般に知らしめるため、とは言っても、主眼は自軍将兵に対して知らしめることですが、高札などで掲示することを目的としているからだと思います。
    これに対して、免許状は、公共の場での掲示を目的にしてはいないと思います。一種の契約書だと思うからです。
    だからと云って、いざと云う時には之を示せば其れなりの効果はあると思います。
    禁制は禁止命令ですから、「お前たち○○してはならない」という書き方がしてありますが、免許状は、「権力者である自分は○○することはしない」と云うぐあいに約束することを書いています。
    ですから、それが判るように訳すべきだと思うのです。

    • 再びのコメントありがとうございます。おっしゃる通り、罰則の提示がないので禁制とは言えないですね。免許状の一種という認識でよいと思います。失礼しました。

      熱田祝師宛てのほうがきちんと書かれているのでそちらを引用しますが、「一切令免許之上者、末代不可有相違者也」をどう解釈するかですね。禁止と見るか、宣言と見るか。https://old.rek.jp/?p=1654では「於向後も申事有間敷者也」となっており、「あるまじく」としていますから、異議を唱える第三者に向けてそれを禁じています。一方で、https://old.rek.jp/?p=1898では「縦百姓等寄事左右雖企濫訴、一切不可許容」となっており、百姓の起訴を受けても自身が認めないと強く宣言しています。

      類似文書を検索したところ、https://old.rek.jp/?p=2298の「殊右両度遣候免許有之上者、彼屋職中、くね・吉野共、於末代、可有知行、自然以松斎子共菟角申義雖有之、聊不可有相違者也」がありました。「不可有相違」の前に略されているのは「菟角申義雖有之」だとすれば、宣言が近いかと思います。ご指摘により間違いに気づきましたので、修正しました。ありがとうございます。

      一方で「不可有異見」の異見とは「菟角申義」を指すと考えられ、介入を禁じているという解釈でよいかと思います。こちらはそのままにしておきます。

  • 「不可有異見」というのは、第三者の介入を禁じているわけではなく、「介入する実力を持つ信長が介入すること」、それはないと約束しているのだと思います。

    • コメントありがとうございます。

      信長自身が約束しているのであれば、多義語の「可」を用いている点が腑に落ちません。発給者が自分の判断を書面に残す場合、https://old.rek.jp/?p=2425の「依有要用永代うり渡処実正也」やhttps://old.rek.jp/?p=2317の「任桃岩判形之旨、令扶助候」のように、「可」を用いずきっちり言い切るパターンが多いように思います。

      「闕所」となった物件に「異見」すると想定されているのは任意の第三者だからこそ、「異見があってはならない」「異見はないだろう」のどちらでもよい文面になったのではないかと考えています。

      語義の多い「可」を敢えて使った意図が判れば、信長が主語という解釈も候補に挙げられるとは思いますが……。

  • これは”判物”といわれるように書面ですから、契約書です。

    従って、そこに登場するのは、差出人と受取人という当事者だけです。

    そして、敵の債権は没収するのが一般的慣行ですが、それをしない特権を免許したのであり、また謀叛などを起こした家臣の土地を取り上げ闕所地とする場合でも、神田についてはその対象にしないという意味なのですから、ここの【可】は主語が、”強い意志をもって動作を行うこと”を表していると考えます。つまり、”きっと~しよう、するつもりだ”という訳が適当だと思います。

    信長の発給したこの種の文書が重要なことは、古代から中世にかけて連綿と続いてきた債務者保護の慣行を破って、債権者保護に乗り出している点なのです。それも第三者などではなく、武力を持って全てを反故にできる実力者自身の権力から自由だと言っていることにあります。

    ”可”は命令を意味するだけではありません。

    • コメントありがとうございます。説明不足でしたが、「可」に決意・意思の語義があることを否定しているのではありません。推量・可能・妥当・命令など多数の語義が並存している点を指摘したつもりでした。「末代」とあるように、読み手が第三者である可能性も織り込まれていますから、肝心の保障面で解釈に幅のある表現をするだろうかという疑問を持っています。

      判物の文面に第三者が登場しないというご意見は初見でした。出典を教えていただければ嬉しく思います。

      また、信長が古来の慣例を破って債権者を保護する政策をとったという指摘は疑問に思います。津島社禰宜の借金を代理返済して債務者を保護したのは信長ですし、1560(永禄3)年に氏真は徳政の例外を認めて債権者を保護しています。場合によりけりではないでしょうか。

      私は、本文書の特異な点は2つあると考えています。

      まず、この文書は1539(天文8)年の織田信秀判物・1553(天文22)年の織田信勝判物の劣化版に見えるということです。信秀は達勝の、信勝は信秀の判物を引き合いに出して保障を行なっていますが、信長は文面を極端に短くした上で先判に言明していません。

      ついで、「敵味方」という表現を用いていますが、通常は守護不入・無縁と表現するものです。この表現は1551(天文20)年水野清近禁制でも見られますので、先判を用いない点と併せて考えると、織田氏よりは水野氏の文書形式を継承していると思われます。

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