一在城五ヶ年之内就右馬允雑説於有之者、遂糾明可申付事

一五ヶ年之内在城相止段於成下知者、只今就在城宛行分者、永不可有相違事

一在城之内為在所見廻可罷越、但至于其時者名代堅可申付事

一同名右近・同名平七郎・原四郎次郎、彼参人之事者可致番積、雑説之時者不可及番積之沙汰事

一牢人被官在城之儀堅可申付、若令難渋者可加成敗事

  付今度在城ニ付て宛行分、不可有訴人綺事

右条々、不可有相違者也、仍如件、

弘治参年

十月廿七日

牧野右馬允殿

→静岡県史資料編7 「今川義元朱印状」(牧野文書)

 一、在城5年以内は右馬允について噂を流す者があれば糾明を申し付けること。
 一、5年の内、在城を休止する命令が出た場合、在城費として拠出している拠出分は相違のないこと。
 一、在城中は周囲を警邏するように。但しその際は代理の在城者をきちんと定めること。
 一、同姓の右近・平七郎、原四郎次郎の3人は番詰として使うが、噂が流れた際は番詰にはしないこと。
 一、牢人と被官は必ず城中に確保すること。もし滞ることがあれば処罰すること。
  付則:今度の在城に当たっての拠出分は訴訟も異議も認めない。
右の条項に相違がないように。

 『日本城郭大系』には、知多半島西岸にも「苅屋城」が記載されている。

苅屋城  常滑市苅屋字城下

衣浦湾に臨み、鵜飼福元の居城と伝えられる。

 という記述であるが、臨んでいるのは衣浦ではなく伊勢湾となっている。常滑市苅屋漁港の北にある岬が城跡らしい。安房勝浦城と同じように、海岸の浸食によって城域は年々削られている模様である。
 立地としては、知多半島中央部にある桧原大池から発した境川の河口となり、現在でも漁港・マリーナとして使われている海路の要衝である。鳴海を恐らく海上から離脱した岡部五郎兵衛尉が、途上襲撃するには恰好の城だと言えるだろう。今川氏がその他で使っている「かりや」城についても、この城を指す可能性があるかどうか再検討が必要だと考えられる。
 また、同書には「東大高城」も紹介されている。

富貴城  知多郡武豊町富貴字郷北 別名・東大高城/邑城 築城者・岩田氏

知多半島東岸にある古い港、武豊町の円観寺と白山神社が、富貴城の城址と伝えられる。広さおよそ七七〇〇㎡、今は堀の跡がわずかに残っている。築城年代は明らかでなく、初め、この地の武雄天神社の祠官岩田氏が長尾城を築き(長尾城参照)、その支城として当城が造られたと考えられる。やがて岩田氏は衰え、河和の戸田氏がこれに代わり、戸田孫右衛門(法雲)が居住したといわれる。戸田氏は今川勢力下にあって、織田氏およびその支配下の水野氏の攻撃を受け、1560(永禄3)年、桶狭間の合戦後、廃城になったようである。

 この城が今川義元・氏真の書いた「大高城」だった可能性もゼロではない。もしそうなら、知多半島を横断して衣が浦に侵入しようとしたのかも知れない。

去九月十八日、吉良荒河山在陣之刻、為打廻安城桜井江相動之折節、敵出合相支之処、入馬粉骨無比類之旨、畔田伴十郎申之条、感悦軍功之至也、弥可励忠節者也、仍如件、

天文十八年 十月十五日

義元(花押)

幡鎌平四郎殿

→静岡県史 「今川義元感状」(徳川黎明会所蔵文書)

 去る9月18日、吉良の荒河山に駐屯、打廻をして安城・桜井へ出撃した際、敵が迎撃して支えていたところに馬を入れ粉骨に比類がなかったと畔田伴十郎が報告してきた。感悦と軍功の至りである。いよいよ忠節に励むように。

鱸兵庫助小渡依致取出、為普請合力岩村衆并広瀬右衛門大夫令出陣、右衛門大夫去八日令帰陣処、阿摺衆馳合遂一戦、手負数多仕出、安藤藤三・深見与三郎両人者、安藤新八郎・同名宗左衛門討捕之段感悦也、此外七日・八日両日ニ於明智、近所通用之者六人討捕、手負数多仕出ニて是又粉骨也、同名権左衛門・横山九郎兵衛・鱸与八郎・阿摺衆神妙之旨可申聞、弥当口之儀無油断可被異見事専一也、仍如件、

九月十六日

義元(花押)

原田三郎右衛門尉殿

簗瀬九郎左衛門尉殿

→静岡県史 「今川義元判物」(和徳寺文書)

 鱸兵庫助が小渡に砦を作り、その構築に助力しようと岩村衆と広瀬右衛門大夫が出陣してきた。右衛門大夫が去る8日に帰陣しようとしたところ、阿摺衆が出撃して戦闘となった。負傷者が多数出た中で、安藤藤三と深見与三郎の2人が安藤新八郎と安藤宗左衛門を討ち取ったことは感悦である。このほか、7~8日に明智において付近を通行する者を6人討ち取った。負傷者も多数だしておりこれもまた粉骨である。同姓(簗瀬氏?)権左衛門・横山九郎兵衛・鱸与八郎・阿摺衆が神妙であったことは申し聞かせよう。いよいよこの方面のことは油断なく意見を行なうことが専一である。

花押は1548(天文17)年以降のもの。

新春之祝儀、不可有休期候、仍太刀一腰給候、目出度候、猶祝詞自是可申入候、随而当春可有越山之旨、待入候、委細高井連惇可申候、恐々謹言、

正月十二日

氏真(花押)

幡竜斎殿

→静岡県史 「今川氏真書状写」(判物証文写附二)

 新春の祝儀で休む暇もないようです。つきましては太刀1腰をいただきました。めでたいことです。さらに祝詞をこちらからお願いしています。このことからこの春に越山いただくことをお待ちしております。詳しくは高井連惇が申します。

※花押は1559(永禄2)年~1560年のものと比定。高井連惇の「惇」は実際は異体字「忄+宗」。

 猶以御辛労難申尽候、時分柄と申、すいりやう申候、

急度申候、仍従御奉行其方へ依御理候、細川衆めしつれられ、早々御移、外聞実儀畏入候、此等趣、良善へ申入候、定而可被仰候、然者竹千世・吉田之内節々御心遣、別而無御等閑しるし忝存、与風此苻へめし下候、御訴訟大方ニも候ハゝ、我等罷上御礼可申候、城中之者共、不弁者之儀共候、御異見頼入候、万吉左右可申入候、恐々謹言、

八月九日

松和泉守 親乗(花押)

田嶋新左衛門尉殿 まいる

→静岡県史 資料編7「松平親乗書状」(田島文書)

1557(弘治3)年に比定。

 急ぎ申し上げます。御奉行からあなたへ説明されたように、細川衆を召し連れて早々の移動、外聞実儀に恐れ入っています。この趣旨は良善(良知善左衛門?)へ申し入れています。さだめしご指示があるでしょう。ということで竹千世・吉田の中(人質?)にも折々心遣いをいただき、放置されることもないのは特にありがたいことです。思いがけずこの駿府に召し下され、御訴訟が粗略になるならば、私が上って御礼を申し上げましょう。城中の皆は不便でしょうが、意見をお願いします。万事吉報を申し入れることでしょう。
 さらに御辛労は言葉に尽くしがたいことです。時節柄、ご推量下さい。

急度申候、松知泉長々就在府被成候、彼家中申事候哉、殊舎弟次右衛門方種々之被申様候、此方にてハ山新なと被取持、三内被頼入候、先日同名攝津守方被罷越候、内々談合ける由其沙汰候、雖然  上様御前無別条候、只今大給用心大切之旨、従其方田嶋方被仰付、松平久助方へ有談合、人数十四五人も御越可然候歟、和泉方も軈而可被罷上候、其間御用心のために候、就中和泉方息吉田ニ被置候、是をいたき可取なとゝ、風聞候、宿等之儀用心可被仰付事尤候、恐々謹言、

七月廿二日

朝丹 親徳(花押)

由四 光綱(花押)

良知善 参

→静岡県史 「由比光綱・朝比奈親徳連署状」(田島文書)

急ぎ申し上げます。松平和泉守が長々と駿府に滞在なさっています。彼の家中から報告ありましたでしょうか。特に弟の次右衛門から色々と報告があるようです。こちらでは山新(山田景隆?)などが仲介して三内(三浦内匠助?)に頼み込んでいます。先日同姓攝津守が来訪して内々で話し合ったのも、その沙汰についてでした。とはいえ上様(今川義元)の前では別状ありません。現在は大給での用心が重要であること、あなたから田嶋に指示するように。松平久助と打ち合わせて軍勢を14~5人も派遣すべきでしょうか。和泉守も早々に向かうでしょう。それまでは御用心下さい。中で和泉守の息子が吉田に置かれているのを、抱き取るだろうなどと噂が流れている。宿営地のことは用心を命令することはもっともなことです。

1557(弘治3)年に比定。

大和田江相動、惣兵衛構相落、当地悉令放火、敵一両人討捕、注進状令披見候、快然候、手負少々雖有之、不苦之由尤候、近日出馬候之条、期其時候、恐々謹言、

十二月廿日

氏真 判

奥平監物殿

→静岡県史 「今川氏真感状写」(松平奥平家古文書写)

 大和田へ出撃して惣兵衛構を陥落させ、その地を全て放火して敵『一両人』を討ち取りました。注進状を見て快く思います。負傷者が若干出たそうですがそれも気にしないとのこと、尤もです。近いうちに出馬いたしますので、その時を期しております。

今度金屋取出之刻、敵相動、無指引退散各粉骨故候、殊自最前有着陣、普請早速出来馳走之段、祝着候、猶各より可申越候、恐々謹言、

八月九日

氏真 判

奥平監物入道殿

→静岡県史 「今川氏真感状写」(松平奥平家古文書写)

 この度の金屋砦攻略戦で敵が出撃してきたところ、損害も出さずに他の部隊を撤収させました。特に直前から陣地につき、普請が早速完成しているという活躍ぶりは嬉しく思います。さらに各々から申し上げます。

今度菅沼新八郎令逆心之処、不致同意、従野田牛久保江相退無二忠節馳走之段、甚以神妙之至也、為其賞従来年代官職一所可申付之、然者以他之地内弐拾貫文、為新給恩可扶助也、弥於励奉公者、重而可加扶助者也、仍如件、

永禄四 辛酉 年

十二月九日

氏真(花押)

岩瀬小四郎殿

→静岡県史資料編7 「今川氏真判物写」(菅沼文書)

 この度菅沼新八郎が反乱した際、これに同意せず、野田から牛久保に退き無二の忠節と奔走をしてくれたことは、とても神妙である。その恩賞として来年より1箇所の代官職を与える。他の土地から20貫文を新たな給恩として与えよう。いよいよ奉公に励むならば、さらに重ねての加増があるだろう。