鱸兵庫助小渡依致取出、為普請合力岩村衆并広瀬右衛門大夫令出陣、右衛門大夫去八日令帰陣処、阿摺衆馳合遂一戦、手負数多仕出、安藤藤三・深見与三郎両人者、安藤新八郎・同名宗左衛門討捕之段感悦也、此外七日・八日両日ニ於明智、近所通用之者六人討捕、手負数多仕出ニて是又粉骨也、同名権左衛門・横山九郎兵衛・鱸与八郎・阿摺衆神妙之旨可申聞、弥当口之儀無油断可被異見事専一也、仍如件、

九月十六日

義元(花押)

原田三郎右衛門尉殿

簗瀬九郎左衛門尉殿

→静岡県史 「今川義元判物」(和徳寺文書)

 鱸兵庫助が小渡に砦を作り、その構築に助力しようと岩村衆と広瀬右衛門大夫が出陣してきた。右衛門大夫が去る8日に帰陣しようとしたところ、阿摺衆が出撃して戦闘となった。負傷者が多数出た中で、安藤藤三と深見与三郎の2人が安藤新八郎と安藤宗左衛門を討ち取ったことは感悦である。このほか、7~8日に明智において付近を通行する者を6人討ち取った。負傷者も多数だしておりこれもまた粉骨である。同姓(簗瀬氏?)権左衛門・横山九郎兵衛・鱸与八郎・阿摺衆が神妙であったことは申し聞かせよう。いよいよこの方面のことは油断なく意見を行なうことが専一である。

花押は1548(天文17)年以降のもの。

Trackback

no comment untill now

Sorry, comments closed.