『日本城郭大系』には、知多半島西岸にも「苅屋城」が記載されている。
苅屋城 常滑市苅屋字城下
衣浦湾に臨み、鵜飼福元の居城と伝えられる。
という記述であるが、臨んでいるのは衣浦ではなく伊勢湾となっている。常滑市苅屋漁港の北にある岬が城跡らしい。安房勝浦城と同じように、海岸の浸食によって城域は年々削られている模様である。
立地としては、知多半島中央部にある桧原大池から発した境川の河口となり、現在でも漁港・マリーナとして使われている海路の要衝である。鳴海を恐らく海上から離脱した岡部五郎兵衛尉が、途上襲撃するには恰好の城だと言えるだろう。今川氏がその他で使っている「かりや」城についても、この城を指す可能性があるかどうか再検討が必要だと考えられる。
また、同書には「東大高城」も紹介されている。
富貴城 知多郡武豊町富貴字郷北 別名・東大高城/邑城 築城者・岩田氏
知多半島東岸にある古い港、武豊町の円観寺と白山神社が、富貴城の城址と伝えられる。広さおよそ七七〇〇㎡、今は堀の跡がわずかに残っている。築城年代は明らかでなく、初め、この地の武雄天神社の祠官岩田氏が長尾城を築き(長尾城参照)、その支城として当城が造られたと考えられる。やがて岩田氏は衰え、河和の戸田氏がこれに代わり、戸田孫右衛門(法雲)が居住したといわれる。戸田氏は今川勢力下にあって、織田氏およびその支配下の水野氏の攻撃を受け、1560(永禄3)年、桶狭間の合戦後、廃城になったようである。
この城が今川義元・氏真の書いた「大高城」だった可能性もゼロではない。もしそうなら、知多半島を横断して衣が浦に侵入しようとしたのかも知れない。