検証a13:刈谷城の謎
松井氏功績表を読めばある程度の時期が判明する。つまり、小豆坂合戦と西条攻略の間である。 小豆坂合戦は1548(天文17)年3月19日。西郷弾正左衛門尉宛感状で判る。西条攻略は、大村弥三郎宛感状の1551(天文20)年12 …
松井氏功績表を読めばある程度の時期が判明する。つまり、小豆坂合戦と西条攻略の間である。 小豆坂合戦は1548(天文17)年3月19日。西郷弾正左衛門尉宛感状で判る。西条攻略は、大村弥三郎宛感状の1551(天文20)年12 …
岡部五郎兵衛尉が鳴海を出て、合戦が収束したのはいつかを考察する。まず、各文書を時系列でまとめてみる。 合戦後最も早い文書は、5月22日に三浦内匠助が松井山城守に宛てたものだ。「去十九日、於尾州口不慮之御仕合、無是非次第 …
1560(永禄3)年5月19日に確認できる関係者所在を挙げてみた。 位置が完全に確認できる関係者 岡部五郎兵衛尉 鳴海城 鵜殿十郎三郎 大高口 水野藤九郎 刈谷城 位置詳細不明だが合戦への関与が確実な関係者 …
日付から潮汐・月齢を考えると、織田方と今川方の作戦にはどのような違いがあるだろうか。 笠寺城中に出した今川義元感状によると、1558(永禄元)年の2月28日に織田弾正忠の夜襲があったことが判る。この日付はグレゴリオ …
大高城への補給が各月の19日に行なわれている点は検証a07で述べた。では、大高城はどのような状況にあったのか。鵜殿十郎三郎宛書状では、この時合戦があり負傷者が出ていることが判る。大高城付近では白兵戦も含めた交戦が行なわ …
年次を欠いているものの、恐らく1560(永禄3)年と思われる朝比奈親徳書状が5月19日合戦の模様を断片的に語っている。 同文書によると、以下の事柄が判る。 合戦当時、朝比奈親徳は鉄砲によって負傷していた。 負傷が原因 …
大高城が5月19日の合戦の焦点になるかもしれない。というのも、尾張国内に侵攻してからずっと、今川軍の大きな作戦目標に「大高への補給」という焦点があったからだ。具体的に検証すると以下のようになる。 鵜殿氏→1560(永禄 …
今川氏真文書にて、撤兵時の岡部五郎兵衛尉が水野藤九郎を討ち取ったことが記載されている。この人物は織田信長文書にも登場する。「当年自何方無到来候之処」とあることから、その年の9月15日になるまで、どこからも贈物がなかった …
織田家家臣、
今川氏真文書によると、松井部隊は今川軍で撤退戦のプロのようなポジションだったことが判る。 駿東郡を舞台とした『河東一乱』が出だしに入っているが、これは宗信の父親の話かも知れない。この文書のあて先は宗信の後継者『八郎』 …