年次を欠いているものの、恐らく1560(永禄3)年と思われる朝比奈親徳書状が5月19日合戦の模様を断片的に語っている。
同文書によると、以下の事柄が判る。
- 合戦当時、朝比奈親徳は鉄砲によって負傷していた。
- 負傷が原因で、今川義元が敗死した現場に居合わせなかった。
- 生き長らえたことを不面目と考えていた。
- 文書発行時三河国に駐屯しており、駿河帰国の目処は立っていない。
山科言継の日記によると、朝比奈丹波守親徳は駿河に在住する朝比奈氏。掛川を拠点に遠江国を担当する朝比奈氏とは別系統のようだ。この書状で痛切に書いているように、丹波守は義元の敗死に責任を感じていたと思われる。負傷しながらも、敗戦で混乱する三河から帰国せず事態の収拾を図ろうとしたのだろう。5月19日合戦から2ヶ月経過していることから、一度は帰還した可能性もあるものの、妙本寺への対応が遅れていたことから考えてずっと前線にいたのではないか。久遠寺の継承者問題があるのに、遠方から指示するに留まっている。帰るに帰れなかったか。この文書以降彼は歴史上から姿を消すことから、織田氏か松平氏との抗争で落命した可能性が高い。
親徳が5月19日当日に負傷したのか、その前の何らかの戦闘で負傷したのかは判らない。何れにせよ、5月19日とそう離れていない日時に負傷したのではないか。何故なら、負傷して義元敗死に居合わせなかったという文章には「負傷していなければ義元本陣にいるべき任務だった」というニュアンスがある。義元本陣に最後まで付き添っていたのは松井宗信である。松井隊は撤収専門部隊(参照:検証a04)だから、本陣を精鋭部隊で警固していた。そして義元本陣の主力戦闘部隊を率いていたのが朝比奈親徳隊ではないか。その彼が負傷して後退していたということは、義元本陣は複数回攻撃されていたことになる。義元が敗死する戦闘の前に、朝比奈親徳隊は深刻な打撃を受けていた。そして、義元本陣と松井隊は、主力とは別行動をとることとなった。このように解釈すると、より自然に各書状が理解できるだろう。
推測に過ぎないが、玉砕覚悟で敵襲を引き受けた朝比奈親徳隊から離脱して、松井隊と義元本陣は後退したのかも知れない。だが、別の敵襲があった。そしてそれは、今川軍の誰にも予想できない展開だった。正面の敵を食い止めた朝比奈親徳は、後に義元討死を聞いて愕然としたことだろう。