日付から潮汐・月齢を考えると、織田方と今川方の作戦にはどのような違いがあるだろうか。
笠寺城中に出した今川義元感状によると、1558(永禄元)年の2月28日に織田弾正忠の夜襲があったことが判る。この日付はグレゴリオ暦で3月28日。月齢は24.7で、輝面22.7。非常に細い月である。最低潮位は22時35分の38センチ。
検証a07の数値とを合わせて並列で並べてみる。
太陰太陽暦 | 永禄1年2月28日 | 永禄2年10月19日 | 永禄2年11月19日 | 永禄3年5月19日 |
グレゴリオ暦 | 3月28日 | 11月28日 | 12月27日 | 6月22日 |
月齢(輝面) | 5.9(31.3) | 15.5(99.8) | 15.0(99.3) | 14.9(98.7) |
日の出 | 0551時 | 0636時 | 0659時 | 0436時 |
日没 | 1808時 | 1643時 | 1647時 | 1909時 |
最高潮位/時刻 | 1860mm/0851時 1610mm/2400時 |
2380mm/0658時 | 2300mm/0657時 | 2310mm/0544時 2410mm/1940時 |
最低潮位/時刻 | 1310mm/2811時 | 80mm/0010時 60mm/2447時 |
-60mm/0003時 -120mm/2444時 |
0100mm/1241時 |
○使用ソフト
from TIDE Version1.33/超スーパー暦 Version1.2
織田方が夜襲をかけたのは干満の差がなく、月明かりもないタイミングだった。笠寺城自体は台地にあるとはいえ、周囲は干潟となっている。海上から攻めるなら潮位を気にする筈である。織田方は月齢・潮汐を気にせず、地上から攻撃したのだろう(新月でもなく、干満の差もそこそこある日付であるため)。城も日時も異なるので単純に今川方の動きと比較はできないが、織田方は月と潮を気にせず作戦を仕掛け、今川方は満月で干満の差が激しい時に作戦を仕掛けようとする傾向があるのではないか。
この笠寺城中宛感状の真偽には疑問が呈されている。静岡県史では検討の余地ありとしているので、慎重に比較したい。但し、葛山氏元朱印状で「笠寺陣」という表現が出てくるが故にこの書状もいくらかの史実を持つものと考えられる。
はじめまして。大岩敬明と申します。
以前から貴方のサイトを拝見させていただき、当サイトでもいろいろと参考にさせていただいています。
そしてこのたび、当サイトにて記事の紹介をさせていただき、そのご報告のためにコメントさせていただきました。
事後承諾の形になってしまい申し訳ありません。お許しください。
また、これからもよろしくお願いいたします。
わざわざのご連絡ありがとうございます。引用元だけお書きいただければ連絡なしでも問題ありません。どんどんお使い下さい。
『日本史さんぽ』を拝見しました。本格的な考究とともに小説も執筆されているのですね。素晴らしい取り組みだと思います。これからの更新が楽しみです。
「桶狭間」については、来月辺りから考察を再開しようと考えております。お気軽にコメントなどいただけますと嬉しいです。
返信が遅くなり大変恐縮しております。
サイトをご覧になっていただいたようで、本当にありがとうございます。
義元の発給文書のグラフ等いくつかの新着記事を拝見させていただきました。
桶狭間の考察についても更新をされていくようで、今後も楽しみに拝見させていただきます。
これからもよろしくお願いいたします。
コメントありがとうございます。次は感状と鎌倉道辺りを検証しようと考えておりました……が、俄かに新出史料が出てきたそうで再び頓挫しております。詳しくは7月4日のエントリをご覧下さい。現状得ている情報では私の仮説に大きく変動はなさそうなのですが、まだまだ判りません。
情報が入手できましたら公開していきますね。