今川氏真文書によると、松井部隊は今川軍で撤退戦のプロのようなポジションだったことが判る。
駿東郡を舞台とした『河東一乱』が出だしに入っているが、これは宗信の父親の話かも知れない。この文書のあて先は宗信の後継者『八郎』となっているが、仮名しかないことから八郎は若年であることが窺われる。となると、今川義元相続時の戦闘である河東一乱に宗信自身が関与したとは考えにくい。
この文書で触れられている手柄については、松井部隊を広く指していると想定できるだろう。
この文書で明らかになったのは以下のことである。
- 1560(永禄3)年5月19日に今川義元が参戦した合戦があった。
- この合戦で松井部隊は全滅に近い被害を受け、宗信も戦死した。
- 記述順に従えば、小豆坂合戦と吉良西条合戦の間に、刈谷城攻略戦があり、今川軍が刈谷城を確保したことが書かれている。
- 「刈谷在城以後」とあるので、松井氏が刈谷城番を勤めた形跡がある。
ここで着目したいのは、撤退戦のベテランが全滅したのか。まして、今川軍最高司令官である義元を擁していながら何故守れなかったのかという点だ。ただしこの文書だけでは、義元戦死は読み取れない。
もう一点。松井氏が刈谷城に在城していたという記述も要注意だ。岡部五郎兵衛尉への文書では、刈谷城に水野藤九郎がいたと記述されている。1560(永禄3)年には、松井氏は刈谷城番ではなかったのか? 氏真の書き方では、特に判読できない。