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検証a13:刈谷城の謎

松井氏功績表を読めばある程度の時期が判明する。つまり、小豆坂合戦と西条攻略の間である。
小豆坂合戦は1548(天文17)年3月19日。西郷弾正左衛門尉宛感状で判る。西条攻略は、大村弥三郎宛感状の1551(天文20)年12月2日と北条宗哲宛書状の1555(弘治元)年10月4日がある。「敵を追い入れた」という状況が同じなので、天文20年のほうが整合性が高い。つまり、1548(天文17)年3月20日~1551(天文20)年12月1日の間に刈谷入城があったと確定できる。
刈谷城への入城に当たっては織田方の妨害があったようだ。接収後の状況は、今川義元からの報告書によって判明する。刈谷城の関係者は、織田備後守の嘆願によって「赦免」されている。但しこの赦免には、山口左馬助は反対していたようなニュアンスがある。
安城城陥落が1549(天文18)年11月8日、上野城陥落が23日(出撃当日)。刈谷赦免は年次不明ながら12月5日。安城・上野関連の感状発行が12月8日・23日。単純に考えると、小豆坂で勝利した今川方が1年半後に安城・上野・刈谷を一気に攻略したのではないか。
その後、松井氏が刈谷城番を勤めていたのだろう。今川氏は城番勤務時に特別手当を給付するが、1560(永禄3)年5月以後も松井氏には刈谷城番の手当が給付されていたことから、刈谷城は少なくとも合戦時までは今川方だったと確定できる。但し、刈谷が今川方だったということは、岡部五郎兵衛尉が刈谷を攻めて水野藤九郎を討ち取ったことを氏真が褒めていることと矛盾する。この点留意しなければならない。

コメント 6

  • 初めまして、
    常々、興味深く拝見しています。
    突然で恐縮なのですが、本日の論考にあります、「永禄三年五月以後も松井氏には刈谷城番の手当が給付されていた」ことを示す史料がありましたら、具体的にお教しえていただきたくお願いします。

  •  こちらこそ初めまして。宜しくお願いします。
     お尋ねの件ですが、正確に書くと「刈谷城番費用だった300貫文を受け取り続けた」です。本文中で触れている松井氏宛氏真書簡(https://old.rek.jp/?p=1551)に「苅屋在城以後弐万疋、近年万疋、彼三万疋、以蔵入雖出置之、依今度忠節、為彼三万疋之改替、」とあります。1560(永禄3)年12月2日に、それまで刈谷城番として拠出していた300貫文を功績に基づいて改めて認可しています。その一方、匂坂長能は岡崎城番を途中から自弁で行なっていますから、今川氏は城番任命中の資金援助を絶対行なう訳ではありません。逆に言うと、12月に改めるまでは松井氏が刈谷城番手当を受領していたのは確実だと考えました。但し5月19日以後も実際に城番だったかは不明です。
     このような推察をしておりました。ご参考になりましたでしょうか? ご不明の点がありましたらまたお気軽にご質問下さい。

  • 早速の丁寧な回答をありがとうございます。
    松井氏宛氏真書簡の解釈ですね。成程と思いました。
    ですが、これは、「苅屋在城以後について」の扶持についての記載であって、扶持の原因は在城手当だとは言っておらず、「右、度々ノ忠節」に対して給付するのだと言っているだけですから、在城していたとは断定できないものと思えます。
    他に何か傍証になるようなものはありませんか。例えば、後に今川方が易々と村木に砦を構えることができた理由として、刈谷城に今川勢が在城していたことも考えたのですが、信長に村木砦が奪回されようとした時には、目と鼻の先にいながら後詰に出ていないのは失態のはずです。そして、その事に対して責任をとらされていないことを証明していることにもなりますから、松井宗信の在城を否定することになりそうです。
    お言葉に甘えて、重ねての質問をお願いします。
    (1)山口左馬助の「別しての馳走」とは、その内容をどのように考えておいでですか。小生は、織田と今川の間で仲介の労をとって、今川方に有利にとり運んだということだと単純に考えていましたが・・・・・。
    (2)義元は、織備が懇望したぐらいで何故、見返りもなく一方的に刈谷を赦免したのだと考えておられますか。小生は、HPで書いたのですが、織田方が攻め取った大高城と交換したのだと考えています。
    (3)赦免されたのは刈谷城の関係者だけであって、刈谷城そのものは水野藤九郎に返還されることはなかったということでしょうか。小生は、刈谷城そのものも水野藤九郎に返還されて、刈谷市史がいうように、忠政次男の藤四郎信近を養氏として藤九郎を継がせたものと考えています。
    (4)山口左馬助が、関係者(刈谷城主か?)の赦免に反対したとしたならば、それはどのような理由からと考えておられますか。小生に考えられる理由としては、左馬助が今川方に寝返るに際して、刈谷城が織田方になる要素が少しでも残されていると、今川との連絡路(東海道)を脅かされるからというものですが、そうしますと、左馬助に寝返りを決断する時期を遅らせたことになります。
    (5)松井氏には、知行地ではなく蔵入から扶持されているのは何故だとお考えですか。小生は、刈谷城も松平氏の岡崎城と同様であって、占領したわけではなく、進駐しただけなので新たな領地を手に入れられなかった為に、知行地を扶持することができなかったのだと考えます。と、言うことは、今川軍の刈谷入城は友好的なものであって、戦闘があったのはそれを遮ろうとした織田方の軍兵とであったということだろうと考えます。
    (6)十九日の合戦で刈谷城の城主藤九郎を討ち果たしているのですから、明らかに刈谷城は敵方になってしまったはずです。松平元康はまだ今川方を装っていますが、刈谷城は緒川城主・信元に接収されているものと考えられるのですが、それなのに氏真が松井氏に扶持し続ける理由についてはどのようにお考えでしょうか。
    追伸:歴探さんのこの記事に刺激されて、小生なりの見解をHPに追加して行きたいと思っています。

  •  再びのコメントありがとうございます。またまた説明が至らず失礼しました。以下補足しますね。
     まず300貫文が城番(在城)の補助金だったのかという点ですが、岡崎城番が250貫文・西尾城番が300貫文・長沢城番250貫文という他文書から考えて推論しています。また、刈谷に本当に駐屯していたのかという点については、松井氏宛書簡「右、度々忠節感閲也、然間、苅屋在城以後弐万疋、近年万疋、彼三万疋、以蔵入雖出置之、依今度忠節、為彼三万疋之改替、」の読み方によるかと思います。「右(前述部分)にある度々の忠節は感悦である。ところで、刈谷城番について以後200貫文、そして近年に100貫文、これは蔵入(今川氏直轄領収益)から拠出していた。この度の忠節によってこれを改めて決める」とし、最終的には318貫文余りを拠出している、と私は読みました。最前私のコメントに書いたように、今川氏は城番を勤めたからといって費用を保証する訳ではありません。その前提がありつつ松井氏を厚遇すために「刈谷城がなくなって駐屯費は出なくなる筈だが、功績によって新たに改定する」という文脈で発給したのではないかと推論しています。刈谷城番以外の補助金だった可能性もありますが、他の城番への書状と合わせて素直に読むと、刈谷城番を勤めた補助金だったと考えた方が無難かと思います。一点微妙なのが、他の城番たちには単位を『貫文』、与え方を『扶助』としているのが、松井氏宛のこの書状では『疋』・『出置』を使っていることです。今後の課題です。
     村木砦については、現状私は信長公記を採用していないので考慮していません。同じく松平元康に関しても5月19日の戦いには参加していなかったと想定しています。この辺り、より柔軟に資料を活用しているかぎやさんのサイトでの検証を楽しみにしております(以前から拝見しておりました)。
     今川方の城番が駐屯軍であり、領主権を伴う城主でなかったというご意見には賛成です。長沢城・岡崎城を巡る匂坂長能への書状はその事を如実に現わしていますので。
     「織備懇望」と水野藤九郎・刈谷城については、明日の夜にエントリー上で見解をご提示しようと思います。またご意見いただけると嬉しく思います。

  • 説明ありがとうございます。
    「織備懇望」と水野藤九郎・刈谷城についての見解を楽しみにしています。

  • […]  今川義元が送った明眼寺と阿部与左衛門宛書状にて、刈谷城の赦免について織田備後守が懇望したとある。これをどう考えるかで、刈谷城が今川方だったか織田方だったかが分かれる。今川方が刈谷城の攻囲を解いて織田方の状態が継続したのか、開城した刈谷城兵の助命を嘆願しただけで、刈谷城自体は今川方になったのかと考えたが、どちらも釈然としない。  山口左馬助は、笠寺出資者に水野氏と名前を連ねていることが確認できる。三河と尾張国境近辺にいた国人だと思われる。山口左馬助が不平に思う事を義元は予期して、そのフォローを明眼寺と阿部与左衛門に依頼している。明眼寺は水野藤九郎書状で寄進先として登場する、水野氏関係の寺院である。  そこで鵜殿長持の書状に着目してみた。この中で、鵜殿長持は「安心」(斎藤利政書状に登場した安心軒?)に対して、織田信秀が和平締結の途中だというのに飯尾豊前守に不穏な内容の書状を送っているとクレームを送っている。この時は飯尾豊前守に書状は渡らなかったようだが、刈谷でも同じ事があり、まずいことに刈谷城主は乗り気の書状を送ってしまったのではないか。それを山口左馬助が差し止めて義元に訴え出た。義元は信秀に、刈谷城を攻めて見せしめにする旨通達し、慌てた信秀がそこまでしなくてもと「懇望」した。信秀からすると、ここで刈谷城が陥落したら、織田方に味方する勢力が大幅に減ってしまう。義元にしても外交上の恫喝だったので、「赦免」することとした。  そうすると山口左馬助にもフォローが必要だ。「左馬助の功績は認めるが、信秀の懇望もあって刈谷は許す。今川方に変動がある訳ではないので納得してくれ」という形で、左馬助を慰留するように書状を送った。  検証a13では1549(天文18)年に懇望があったと記述したが、上記推測が正しいとすると、刈谷入城(1548(天文17)年3月20日以降と推測)より後であればいつでも構わないこととなる。  信秀に絡むこの2書状はどちらも年次を欠いており、前後関係も不明だ。但し、鵜殿氏書状が先行していた可能性が高いと考えている。その件に着目した山口氏が情報網を張り巡らし、刈谷城主の地位目当てに水野藤九郎を徹底マークして証拠を挙げたのではないか。それだけに恩賞に対してはとてもうるさく、今川義元は慰留の書状を出さなければならなかったと。  この件が刈谷=水野藤九郎へのしこりとして今川氏中枢部の心証として残り、岡部五郎兵衛尉が藤九郎を討ち取ったという書状への伏線になるのかも知れない。 […]

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