今度三州過半錯乱、加茂郷給人等各致別心之処、財宝以下悉捨置云々、殊抽一身吉田エ相移令奉公段、甚以忠節也、然者陣夫一人并同名善四郎給拾貫文地、同三人扶持由雖申、各爾相尋随忠節之軽重遂糺明、重而可加扶助、并同名次郎兵衛抱来本給方名職之事、如本立時、年員諸役之儀者如年来可勤之、永不可有相違之状如件、

永禄辛酉四年 六月廿日

山本清介殿

→戦国遺文 今川氏編1712「今川氏真判物写」(国立公文書館所蔵牛窪記)

 今度三河国の過半が混乱となり、加茂郷の給人たちがそれぞれ寝返ったところ、財産を全て捨てたとか。特に一人だけ抜きん出て吉田へ移動して奉公したのは、大変忠節である。ということで、陣夫1人と同姓善四郎給10貫文の地、同じく3人扶持を申したとはいえ、それぞれに事情を聞いて忠節の軽重を調査に、重ねて扶助を加えるだろう。として、同姓次郎兵衛が保有している本給の名職のことは、本来のように年貢・諸役のことは年来の通り勤めるように。末永く相違のないように。

知行方之事

一四百貫文 牛久保城共

一弐百貫文 行明

一百貫文 大村不動堂方

一百貫文 豊河中条方

一百貫文 小倉方

一百貫文 麻生田

一百貫文 賀茂

一百貫文 下条

一五百貫文 ほそや 七根 下条之内百貫文 [但此三ケ郷之於不足者、都合可申付事]

一八百貫文 大沼領一円

一四百貫文 保久一円

一五百貫文 大給領

  都合三千五百貫文

一遠州 三ケ一之事

一日近 如近年其方可為家中事

一縁昨之事

一徳政之儀、駿・遠・東三河之分者、先年如被相究、相違有間敷候事

右条々如件、

永禄七年[甲子] 二月廿七日

 家康 御判

奥平監物丞殿

戦国遺文 今川氏編→1966「松平家康判物写」(東京大学総合図書館所蔵松平奥平家古文書写)

一今度父子以馳走、菅沼小法師属味方畢、然者去年三州悉逆心之割、無二依忠節充行知行之内、萩・牧平・樫山三ケ所、合五貫文、只今本領主爾令還附之段、太以神妙也、因茲為改替出置知行之事

一菅沼新八郎本知悉并蔭山方稲木村共所令扶助也、此員数三百五拾貫文、但右之五百貫文改替之員数為不足之間、彼知行増分雖有申出輩、不可及其沙汰事

一彼知行之内、自余之輩爾雖出置之、為右之五百貫文之改替、只今充行于定能上者、不準自余之条、其領主方江不可及替地之沙汰、併依忠節之軽重、以他之地替地可申付、於彼地定能爾出置上者、聊不可有相違事

右条々、永領掌不可有相違者也、仍如件、

永禄六[癸亥]年五月十四日

 [今川氏真也]上総介 判

奥平監物之丞殿

→戦国遺文 今川氏編1913「今川氏真判物写」(東京大学総合図書館所蔵松平奥平家古文書写)

 一、今度父子が奔走して菅沼小法師を味方にした。ということで去る年三河国がことごとく逆心した際に示した無二の忠節により、渡した知行のうち、萩・牧平・樫山の3箇所、合わせて5貫文を元の領主に現在還付しているのは、本当に神妙である。ここに代わりの知行を出すこと。一、菅沼新八郎の本知行全てと、蔭山方の稲木村を共に扶助するところとする。この員数は350貫文。但し、右の500貫文の代わりとするには不足があるので、あの知行で増分が出てもそれは軍役対象・課税対象とはしないこと。一、あの知行のうちで他の者が充て行ないを受けたとしても、500貫文の替地であるため、今定能に充て行なう上は対象外とする。その領主方への替地処理対象とはせず、忠節の軽重を鑑みて他の地を替地として申し付けるように。あの地を定能に渡した上はいささかの相違もあってはならないこと。

 右の条々、末永く諒承して相違があってはならない。

房州様当地箕輪御在城附而、我ゝ令得御介抱候之刻、其方不退御薬等神妙ニ進上、依之、為氏邦御内意、合薬之儀、就覃助言、自分江も別而懇意、殊一両月医書悃望之間、肆読之契介申候条、製名字之一分ニ有之、医道之末裔に與、内訴之所、雖遠慮之儀候、右之旨趣、難黙止之間、任承染筆頭候条、仍如件、

天正拾一[癸未]年

五月十六日

 糟尾 法眼寿信(花押)

糟尾養信斎 参

→戦国遺文 後北条氏編2536「糟尾寿信判物写」(武州文書所収児玉郡医者衛次所蔵文書)

 安房守(氏邦)様が当地箕輪にご在城で、我々が介抱しておりました時、あなたが退かずお薬を神妙に進呈、それによって氏邦は回復しました。薬の合わせ方も助言いただき、自分へも特別に懇意にしていただきました。特に1両月は医学書をお望みでしたので、『肆読之契介』を申していますから、苗字の一分を製して医道の末裔にと内々に訴えたところ、遠慮のことではありますが、右の趣旨もだし難く、承ったことに任せて筆を染めました。

[折紙]伴野藤兵衛殿御老母、其地へ指移申候、然者、宿之事、其方所ニ置可申候聞、苦労ニ候共、やと可致之候、他国衆之事ニ候間、一入於何事も不在無沙汰、懇比申、万馳走可為肝要候、用所之義をハ、何事成共、筑後守ニ可相談候、毛頭もふせうけ間、躰無沙汰者、弥不可有曲候、猶馳走専要候、仍如件、

十月二日

 政繁(花押)

次原新三郎殿

→戦国遺文 後北条氏編2423「大道寺政繁判物写」(武州文書所収入間郡新兵衛所蔵文書)

天正10年に比定。

 伴野藤兵衛殿のご老母、その地へ移動させます。ということで、宿はあなたの所に置く事になったと聞きました。ご苦労ですが宿をご提供下さい。他国衆の事なのでとりわけ何事も遺漏があってはなりません。親しく言っている通り、色々と奔走する事が大切です。必要な物は何事であっても筑後守に相談下さい。少しでも不精っぽくなって粗略に扱うなど、いよいよ詰まらない事にならないよう。さらに奔走するのが肝要です。

「上包」

「山上強右衛門尉殿 従小田原」

参百五拾石

 此内

弐百五拾石 関東糺明之上、郷名可顕之、

百石 河内之内

 此内 六十六石 野中村之内

    卅四石 丹上之村之内

以上

右知行、為堪忍分先遣候、氏直身上之依是非、追而可重恩賞候、併走廻次第候、仍如件、

天正十九年[辛卯]

八月廿五日

山上強右衛門尉殿

→小田原市史2088「北条氏直判物写(折紙ヵ)」(相州文書 大住郡和田仲太夫所蔵)

 350石。このうち、250石は関東で協議した上で郷の名前を明らかにするだろう。100石は河内国の内でこの内66石は野中村のうち、34石は丹上之村のうち。以上。右の知行は堪忍分としてまずお渡しします。氏直身上の是非により、追って重ねての恩賞もあるでしょう。そして活躍次第です。

  就大塚之郷任置、具申遣候、能ゝ可致分別候、

一、若年之間ハ、先ゝ親之以苦労致奉公儀、古来法度之様歟、雖然、譜代之仁ト云、親子数多之儀ト云、彼是共ニ不准自余、如此候、弥其方覚語見届候ハ、何分ニモ可引立間、心易可存事、

棟別・段銭・人足、此三ヶ条ハ、自・他国共ニ法度之間、不可指置候事、[猶別紙ニ有]

右、朝暮無油断、存分ニ被嗜、可為肝要候、条ゝ、鈴木修理ニ申含候、仍如件、

天正十年[壬午]五月十三日

 長則判

木呂子新左衛門殿

→戦国遺文 後北条氏編2338「上田長則判物写」(岡谷家譜)

 大塚の郷をお任せする件、詳しくお伝えしました。よく考えて治めて下さい。

一、若年のうちは、まず最初に親の苦労で奉公すること。古来からのしきたりでしょうか。そうはいっても、譜代の出自であることといい、数代にわたって仕えてくれたことといい、どちらを考慮しても他とは異なります。このことから、あなたの頑張り次第ではもっと引き立てますから、ご安心下さい。棟別・段銭の徴税と人足の提供、この3点はこの国でも他国でも決まり事ですから、放っておいてはなりません(更に別紙に書きました)。

 右のこと、朝も夜も油断なく、充分に勤めることが重要です。それぞれ鈴木修理に申し含めています。

御本領之儀者、武田家之砌相違以来、小幡拘来候条、無是非候、然間永禄十年[丁卯]武田信玄被申合候後閑之儀、進置候、相当之軍役、厳重之儀、可然候、自今以後、武辺別而於御稼者、涯分引立、可懇切申候、恐ゝ謹言、

天正十一年[癸未]正月十一日

 氏直

後閑宮内少輔殿

→小田原市史1500「北条氏直判物写」(群馬県前橋市 群馬大学附属図書館所蔵文書)

 ご本領のことは、武田家になった際に相違して以来、小幡氏が知行していました。是非もありません。そこで1567(永禄10)年に武田晴信が策定した後閑のこと、ご進呈いたします。相当する軍役は厳重に勤めますように。これより以降、軍事について格別に戦果を挙げるなら、とりわけ引き立てると親しく申しましょう。

小机筋大豆戸郷出置之候、可知行者也、仍状如件、

永禄四年 辛酉

七月七日

 氏政判

小幡源太郎殿

→小田原市史492「北条氏政知行充行状写」(記録御用所本古文書二)

 小机の大豆戸郷を拠出します。知行するように。

今度彦九郎号上洛、中途迄相越、親類被官人為書起請文、対清房相企逆心、一跡押而可請取之催、甚以不孝之至也、殊一城預置之上者、何時毛不得下知、一跡可請取事、自由之儀也、此上雖為父子納得、彦九郎進退不見届以前之儀者、一跡不可相渡、清房納得之上、表向雖申付、知行等之事者、彦九郎覚悟不見届間者、可為清房計、致今度之企本人有之由申之条、遂糾明、其段歴然之上、可加成敗、縦山林不入之地仁雖令居住、父子之間如此取持事、依為奸謀、如清房存分加下知、今度之子細取持輩之知行分於有之者、任先判形之旨、清房可為支配、重父子之間取持公事 申出、如何様之道理雖有之、最前之首尾条々為曲事上者、一切不可許容者也、仍如件、

永禄弐[己未]年

五月廿三日 氏真(花押影)

興津左衛門尉殿

→戦国遺文今川氏編「今川氏真判物写」(国立公文書館所蔵諸家文書纂所収興津文書)

この度、彦九郎が上洛と称して途中まで行き、親類・被官に起請文を書かせ、清房に対して逆心を企て、強引に当主になろうとした。大変な不孝者である。特に一城を預けておいたのだから、どのような時も指示を得ずに跡を継ぐことは勝手過ぎることである。父子で納得したといっても、彦九郎の進退を見届けていない状況では、相続を認められないだろう。清房が表向き納得したとはいえ、知行などのことは、彦九郎の覚悟を見届けていないのだから、清房だけの所有とせよ。この度の企ては本人がしたと言われているので、調査してそれが事実ならば成敗を加えるように。たとえ山林・不入の地に逼塞したとしても、この件で父子の間を取り持つことは陰謀と見なす。清房の思うとおりに動くように。この度の経緯を取り持つ者の知行は、先の判形の通り清房の支配とするように。さらに、いかなる理由があるにせよ、父子間の訴訟を申し出ても、この件は徹底的に誤りであるから、一切許しはしない。