「上包」

「山上強右衛門尉殿 従小田原」

参百五拾石

 此内

弐百五拾石 関東糺明之上、郷名可顕之、

百石 河内之内

 此内 六十六石 野中村之内

    卅四石 丹上之村之内

以上

右知行、為堪忍分先遣候、氏直身上之依是非、追而可重恩賞候、併走廻次第候、仍如件、

天正十九年[辛卯]

八月廿五日

山上強右衛門尉殿

→小田原市史2088「北条氏直判物写(折紙ヵ)」(相州文書 大住郡和田仲太夫所蔵)

 350石。このうち、250石は関東で協議した上で郷の名前を明らかにするだろう。100石は河内国の内でこの内66石は野中村のうち、34石は丹上之村のうち。以上。右の知行は堪忍分としてまずお渡しします。氏直身上の是非により、追って重ねての恩賞もあるでしょう。そして活躍次第です。

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2 comments untill now

  1. マリコ・ポーロ @ 2012-08-24 22:02

    「従 小田原」が「小田原より」なのですか。
    氏直は、19日に大阪の秀吉のもとへ出仕し、10日には督姫が小田原を発ち27日大阪着と思っていましたが。

  2. コメントありがとうございます。なかなかよい質問ですね。

    懸紙(書状の外装部分)にある「従小田原」はちょっと微妙です。このサイトで「自小田原」と検索してもらえればお判りになるように、氏政・氏直は「小田原より」と書く際に「自小田原」と記します。ところが当文書では「従」を使っています。この文書は写しなので「自」と原文にあったものを「従」に書き違えた可能性がありますが、秀吉に臣従することで花押も変えた氏直が「従」をわざわざ選んだ線も捨て切れません。

    このように用字に違和感はあるものの、文書を素直に読む限り氏直は小田原からこの書状を出したのだと思います。その3日後に「19日にお目見えした」としている点、石垣山の「辛卯瓦」をつなぐと、秀吉も小田原近辺にいた可能性が高いように思えます。

    秀吉側の行動を余り追っていないので心許ないのですが、氏直の文書から見ると1591(天正19)年8月に氏直が小田原にいたという仮説は矛盾はしないように認識しています。