「[切封墨引]岡田新■■ 利世

小幡兵衛尉殿 人々御中」

当城を六月七日両日相尋候へハ、はや其方へ御越候由候、不懸御目御残多存知候、彦三様より貴所様之事内ゝ心懸申候へて被仰越候条、小田原へ取寄候時分より、いかなるつてニても、セめて書状を取かわし申度候而、さまゝゝ調略共仕候へ共、此方ハ不苦候へ共、城中ニて御法度つよく候由候而、御為いかゝと存候て不申入候、六日七日両日ハ者はが善七郎殿と申人を頼申候て、案内者をこい候てたつね申候、氏直様御壱人ニて二夜御酒なと被下候間、昨日七日之晩、家康陣取へ御立越候、

一、彦三様御身上之事いかか被思食候哉、其方之御様子之通ニてハ是又家康ヘか内府へ御出候て尤候、

一、忍之城御セめ候わんとて越後衆・羽筑前殿ニ被仰付候、昨夕此地まて御越候間今朝すくニおしへ御越候、定而彦三郎殿もおしへ可為御参陣候哉、貴所様もおしへ御出候ハん哉、御大儀なから御馬とり一人ニて此方へ御出候事ハなるましく候哉、以而上彦三様御身上又ハ貴所様御身上之事申談度候、

一、信州あいき息宗太郎も家康へ罷出度と被申間、津田小平次と我ゝ両人して肝煎申候ハんと申候ても不人事、被仰候間、片時もいそぎ申談度候、

一、先度木村ニ直談申候、先年信州こむろニて、井野五左衛門と申人へやくそく申候金子早ゝ御済候て尤候由申入候、五左衛門と申人、其時ハほうはいニて候今ハ上様御馬廻ニて一段御意よしニて候定而其方より御出可申候へ共、我もひきやうをかまへ候カなとゝ申候てめいわく仕候、けにゝゝ難相済候、一時も御いそき候て是非を御きわめ候て、其上不相調候者それにしたかひ御分別なされ尤候、上州之事家康へまいり候事必定と相聞申候間、家康へ御詫言候やうにと存候て、内府へも大かた申籠候、内府より被仰候者家康之御まへハ可相済候と存候、

一、小田原城当年中ハ家康可有御出由候、来年江戸へ御越候へと被仰出候、

一、此間ハ近年家康之御分国を一円ニ内府へ可被遣候と申候キ、三川国ニ別人を御おき候て其かわりニ上州を内府へ被遣候ハんなとゝ、たた今御本陣より被越候人被申候、あわれゝゝさ様ニも御及候へハ、彦三様御身上其まゝ相済申事候、莵角いつれの道ニても、内府を御頼候て家康へ御理候てハはつれぬ御事たるへきと存候、

一、貴所様御身上なともなにとそ御分別尤候、彦三郎殿御身上如前ゝ相済候へハよく候、若不相済候とて俄ニとやかくと被仰候ても、難相調候間、我ゝ請取不申候ハゝ急度 上使を可遣候なとゝ申候而、此間ハ日ゝニ申来候而難儀仕候、急度被仰付候而尤候、

一、当城之御無事之きわニ貴所様之事疎略仕候様ニ可思食八幡ニも富士白山ニもセいを入申候事、大方ならす候へ共、仕合わろくかけちかい申候へハ、不及了簡候、とかくたゝ今御身上御きわめて尤候、少御やすミ候て、何分是へ木村存知ニて候間、可有御出候哉、申談度候、恐惶謹言、

六月八日

 利世(花押)

→戦国遺文 後北条氏編4543「岡田利世書状」(源喜堂古文書目録二所収小幡文書)

天正18年に比定。

 この城を6月7日から2日訪れましたので、早くもそちらへお知らせになったとのこと。お目にかかれず大変残念に思います。彦三様よりあなた様のことを内々で心がけてほしいと仰せいただいていたので、小田原を包囲した時分より、どのような伝手でもせめて書状を交換したいと考え、様々な手段を試みましたが、こちらは問題なくても、城中ではご法度が強いとのことで、そちらのためにならないと思って申し入れませんでした。6日・7日の2日間は垪和善七郎殿という方を頼んで案内する者を得てお訪ねしました。氏直様お一人で2夜お酒などをいただきましたので、昨日7日の晩に家康の陣へお立ち寄りになりました。

 一、彦三様の身の上のこと、いかがお考えでしょうか。そちらのご様子の通りだと、こちらもまた家康へか内府(信雄)へ出仕なさるのがもっともです。

 一、忍の城をお攻めになるということで、越後衆と前田利家殿へご命令になりました。昨夕この地にお越しだったので、今朝すぐに忍へお出かけになりました。きっと彦三郎殿も忍へご参陣なさるでしょうか。あなた様も忍へお出でになりますか。お手数ですが、お馬とり1人だけ連れてこちらへお出でになるのはかないませんか。その上で、彦三様の身の上、またはあなた様の身の上のことをご相談したく思います。

 一、信濃国相木の息子宗太郎も家康へ出仕したいと申されているので、津田小平次と私の2人で肝煎りして申し上げようとしても人事とならぬと仰せになられているので、とにかく急いでご相談したく思います。

 一、先に木村へ直接申しました。先年信濃国『こむろ』(小諸)で井野五左衛門というに約束した金銭を早々にご返済するのがもっともであると申し入れがありました。五左衛門という人は、その時は同僚で、今は上様のお馬廻で一段と目をかけられています。きっとそちらからお返しになるでしょうが、私も裏表があるのかと言われて困っています。本当に紛糾しているので、一時もおかずお急ぎになって事実を確認して、その上で揉めるようならそれによってご判断さなるのがもっともです。上野国のことは家康へ与えられることは間違いないと聞いていますので、家康へお詫び言するようにと考え、内府へも大体は申し含めています。内府から仰せになれば家康に仕えることは済んだも同然です。

 一、小田原城は今年一杯は家康へ渡されるとのことです。来年は江戸へ移るように仰せになられました。

 一、この間、近年の家康ご分国を全て内府へ渡されるだろうとのことでした。三河国に別の人を置かれて、その代わりに上野国を内府へ遣わすなどと、ただいまご本陣より来られた方が申されています。かわいそうに、そうなってしまったら、彦三様の身の上はそのままでは済まなくなることです。とにかくどのようになったとしても、内府をお頼りになって、家康へご説明なさらねば進展はないだろうと思います。

 一、あなた様の身の上なども、どうかご分別なさるのがもっともです。彦三郎殿の身の上は前々のように済めばよいことです。もし済まないことになって急にとやかく申されても、調整するのは難しいでしょうから、私たちが保障できなければ、上使を派遣するだろうなどと言ってきています。このところ毎日言ってきて難儀しています。急いでご指示いただくのがもっともです。

 一、当城のご無事の際に、あなた様のことを疎略に扱うような思し召しは、八幡にも富士権現・白山権現にも精を入れていることは、大概のことではありませんけれども、巡り会わせが悪く懸け違いが起きては了見を得ません。とにかくただいま身の上をお決めになるのがもっともです。少しお休みになって、なにぶんこのことは木村も存じていますから、お出でになりませんか。ご相談したく。

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