感状で「返」という表現を用いているのは今川氏の特徴である。アップした史料から抽出すると4例が見つかった。

「味方及難儀之処、自半途取返、入馬敵突崩得勝利」義元→岡部元信 1552(天文21)年
「尾州大高城江人数・兵粮相籠之刻、為先勢遣之処、自身相返敵追籠」義元→奥平定勝 1559(永禄2)年
「敵慕之処、宗信数度相返条」「味方令敗軍之刻、宗信相返敵追籠、依其防戦」氏真→松井八郎 1561(永禄4)年
「敵慕之処一人馳返」氏真→稲垣重宗 1562(永禄5)年

基本的に、味方の劣勢が前提にある。これを見て退却中なのに引き返したり、追撃してきた敵に反撃したりという内容だ。この中で2番目の奥平監物宛については、菅沼久助宛の別の感状が内容を補足している。

どちらも10月23日の日付を持つこの感状だが、ほぼ同文である。

菅沼久助宛

去十九日、尾州大高城江人数・兵粮相籠之刻、為先勢遣之処、為自身無比類相働、殊同心・被官被疵、神妙之至甚以感悦也、弥可抽忠功之状、仍如件、

奥平監物宛

去十九日、尾州大高城江人数・兵粮相籠之刻、為先勢遣之処、自身相返敵追籠、無比類動、殊同心・被官被疵、神妙之至甚以感悦也、弥可抽忠切之様、仍如件、

異なるのは活躍の内容。「為自身無比類相働=自ら比類なく働き」久助に対して「自身相返敵追籠=自ら引き返して敵を追い込めた」という監物がいる。

可能性として考えられるのは、監物が先に進んでいた。あるタイミングで久助が攻撃され部隊長が戦闘に加わる程の激戦となった。それを見た監物は引き返して援助し、敵をどこかへ追い込めた。といったところだと思う。

2人は大高城へ兵員と食料を搬入するために行動している。食料は荷物でしかないが、兵員はそのまま護衛部隊になる。自分の同心・被官を伴っていることから考えても、監物・久助はそのまま大高城に入ったと考えられる(但し、翌年5月19日に菅沼久助は武節城方面にいたことが判明している)。

義元の文言に「尾州大高城江人数・兵粮相籠之刻」という抽象化がなされていることから、この時に食料を携えて大高城へ入ったのは久助・監物の他にも複数存在したような印象も受ける。「為先勢遣之処=前衛部隊としたところ」とあるので、この2人の後に物資・交代兵員が続いたのだろう。

また、この戦闘は昼間行なわれた可能性が非常に高い。夜間戦闘は評価が高いようで、感状では明言される例が非常に多い。であるから、逆にこの戦闘が夜間戦であった可能性はとても低いといっていい。

この補給ルートは、大高に最も近い鳴海城から行なわれたと考えてよいだろう。鳴海城は今川義元敗死後も堅持された防御力を誇るので、ここまでは安全に運び、潮の干満や悪天候にも左右されないという丸内古道を使えば鳴海城南端の瑞泉寺から約2.6km。

鳴海城の南側から伸びる古道で、2000年の洪水でも被害を受けなかったという。

鳴海城の南側から伸びる古道で、2000年の洪水でも被害を受けなかったという。

この今川補給部隊を攻撃するとなると、最も近いのは星崎城となる。星崎城は1590(天正18)年に吉川方が駐屯した史料があり、周囲を海に囲まれていたことが判る。その先の喚続神社までは戦国期陸地だったと考えられる。この近辺は大規模な塩田もあって、経済的にも今川方に奪われる訳には行かなかったのだろう(織田信長による接収史料)。加えて、星崎・笠寺まで進出されれば熱田は目の前である。星崎には織田方が多数詰めていたであろうし、その一部が眼前の補給部隊を急襲したとしてもおかしくはない(正午前後であれば干潮であって地続きとなる)。

 

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