『歴史研究 第592号』の「特別研究 沓掛城の新発見」にて太田輝夫氏が、沓掛城の比定地を考察している。要旨は以下の通り。

■現在城跡公園になっている遺構は蓬左文庫の『沓掛村古城絵図』と規模・縄張りが合致しない。発掘物も決定的なものは出ていない。

■公園の西にある聖応寺周辺に空堀・土塁などがあって、絵図とも条件が合いそう。

■鳴海・大高方面が眺望できる聖応寺側遺構の方が比定地として有利ではないか。

詳しくは直接文面をご確認いただきたい。

私も太田氏の推測は妥当だと考えている。直接訪れると判りやすいが、戦国期の城郭として現在の城跡公園は「比定地としておかしい」という印象が強い。手頃な丘陵地に囲まれている窪地で、川や崖がある訳でもない。

恐らく、城跡公園の沓掛城は天文年間以前の古態で居館ベースではないか。その後、より戦闘を意識した聖応寺側遺構に移ったと。

ただ私は永禄3年限定で、もう1つの沓掛城の存在を考えている。位置は二村山である。今川方から見れば、鎌倉道を鳴海まで確実に掌握する必要があり、それには聖応寺遺構ですら東に寄り過ぎているといえる。二村山はこの近辺の最高地点であるし、西に向かってそそり立つ地形から見ても要害といえる。

上の図で、峠地蔵から西に坂を下った辺りに茶色で分類される草地があるが、ここは曲輪状の地形である。ここのさらに西に笹(黄色エリア)が位置するが、この境目は土塁と空堀の組み合わせになっているのだ。

セイタカアワダチソウなどが茂る平地部分

セイタカアワダチソウなどが茂る平地部分

曲輪側から見た城門的地形。土塁を分断している。

曲輪側から見た城門的地形。土塁を分断している。

北に延びる土塁面

北に延びる土塁面

土塁を左右に置いた城門的地形

土塁を左右に置いた城門的地形

南へ延びる土塁面

南へ延びる土塁面

この曲輪の中央を鎌倉道が抜けているが、貯水池のあるピークと展望台のある峰に挟まれており、かなり防御力は高い。

展望台からの下り道。

展望台からの下り道。

展望台からの連絡通路はかなりの急坂。ここを攻め上るのは至難だろう。

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