今川義元の三河出馬について、政治的名理由を考察してみた。

まとめると、三河国衆を取りまとめるために義元自身と松平元康の出征が必要だったという点を基点として、以下の要素を含んでいる。

■嫡男を長期間もうけられないでいる氏真の後継能力を疑い、姪孫である松平信康を岡崎に据えて氏真と相対的な権限を与えようとした。

■武田晴信が織田信長と交渉を開始していた。これは東美濃の遠山氏と共に美濃の斎藤義龍に対抗するため。そのため、今川氏がこの戦線の主導権を握るために、織田氏を従属させる必要があった。

また、以下の要因も想定してよいかも知れない。

■義元・氏真が朝廷から任官されたのが5月8日であったため、この任官を三河国で受けたかった。

■伊勢遷宮の費用負担を、支配が徹底していない西三河・東尾張に及ぼすために軍事的バイアスを強めた。

これら西への偏重政策は、当時40代に突入した義元の余命予測に基づく可能性もある。今川家累代の没年齢を列記してみる。

範国 89歳(病死)
範氏 49歳(病死)
泰範 79歳(病死)
範政 69歳(病死)
範忠 53歳(病死)
義忠 40歳(戦死)
氏親 55歳(病死)
氏輝 23歳(不明)

家系図は当主として持っていたと思うが、最も意識したのは父の氏親だろう。満年齢で享年55歳だが、最晩年は病臥していた。曽祖父の範忠の没年齢を考えると、大体53歳頃が自らの想定寿命だと考えた可能性はある。

だとすると自分が元気なのもあと10年。ある程度の年齢になるとあっという間に過ぎる時間である。三河に独自政権を扶植するために急激な方針転換を図る必要に駆られたという仮説も成り立つと思う。

さて。政治状況の考察としては一旦切り上げて、地勢的な要因の考察に入る。鳴海城が落ちなかった謎、毎月19日に補給戦を行なっていた謎、刈谷城の謎などなど、細かく考えると際限がないので、考えをまとめつつラフデザインを検討したい。

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