今川・織田の両軍勢がどのように移動したかは、当時の主要道路によって推測可能なので、とりまとめてみた。個別に立論する必要はあると思うが、まず前提となる地図を示してみよう。

mini-map

実線が今川方、破線が織田方の移動経路となる。

まず、今川義元が西進したのは岡崎から知立の北を経て沓掛に抜け、そこから鳴海に行く経路で問題ないと判断する。これは1574(天正2)年に尾張国で道路変更が行なわれるまでの主要路(鎌倉道)に沿っており、軍隊を動かすのに最適であるためだ。

そしてもう1つの重要な経路として大高から緒川に抜ける師崎道を示したい。織田方が主に用いたと考えている道路だ。

今川方は天文末年に尾張東部への侵攻を完了し、岩崎(現・日進市)と鳴海(現・名古屋市)の領有を完遂している。その一方で緒川と刈谷は確保できず、1556(弘治2)年には吉良(西尾市)にまで侵入されている(織田上総介荒河江相動之処)。師崎道を利用する織田方は、吉良にまで影響を行使できた。

そこで今川方は、大高を織田方から奪って師崎道を封鎖したと思われる(永禄の初め頃に大高の水野氏(十郎左衛門)を調略したと想定)。ここ押さえれば、緒川・刈谷の水野氏が孤立するためである。対して織田・水野方は大高城の奪還を指向し、この流れで大高城が焦点となってくるというのが私の仮説だ。

地図中に菱形で示したのは関連する古戦場の比定地である。三河に奥深く入り込んだ緒川・刈谷を巡って織田方と争っていることが判るだろう。

また、従来の説では大高への補給は沓掛から行なっていたとしているが、鳴海からの方が合理的だと判断した。移動距離が短いし師崎道封鎖に連携できるからだ。一次史料と日付を考慮しつつ、次回詳しく説明する。

余談だが、この仮説では取り上げない「織田方が鳴海・大高を攻めるための付け城」群は、実は今川方が築いた遺構ではないかと考えると、従来説では疑問だった以下の諸点が解消する。

  1. 中島砦は川の合流点にあり西からの水運監視に向いている。しかし東方向は地続きで、今川方援軍の攻撃を防げない。
  2. 丹下砦は鎌倉道のうち下道の渡河点を確保できる位置にある。だが、標高は成海神社・鳴海城より低い。戦術価値よりは、星崎・笠寺から渡ってくる物資・人員を臨検する関所の方が機能を発揮するように見受けられる。
  3. 善照寺砦は間に高地を挟んでしまい鳴海城が見えないことから、攻撃用の城ではないと断言できる。遺構から考えて明らかに北東の鎌倉道への出撃・防御を意図しており、地獄沢(現在の新海池)から南下してこの砦の北東を抜ける物流の監視、もしくは東から来る部隊への攻撃(または援護)を企図しているように見える。この砦と瑞泉寺については例外的に仮説内に取り込む予定だ。
  4. 鷲津・丸根の砦は大高城から離れ過ぎている上、河口に近い川を挟んでいるために潮の干満や天候で攻撃機会が制約されてしまう。標高としても大高城を見下ろせる訳ではない。むしろ、川に沿って延びる師崎道を大高城と連携して監視する機能の方が高いのではないか。
  5. 戦人塚も地形から考えて、鎌倉道最高点の二村山の死角を補って師崎道方面を監視する方が機能が高い。ここは砦跡という伝承はないが、戦死者が多数出た点から憶測してみた。
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