鳴海から沓掛にかけては鎌倉道が直通していたが、近世になると鳴海から有松を経て知立に抜けるようになる。では、1560(永禄3)年にはどうなっていたのか。

又鳴海の里を行ば、藍原宿を過て、田楽が窪と云野を過て、沓かけを下て一里計東に川有。是まで尾張也。

→豊明市史 資料編1 9「名所方角抄」宗祇

飯尾宗祇の著と伝わるこの書物から、1460(長禄4)年~1500(明応9)年くらいの年代と推測される。鳴海から相原を経由、田楽窪という平地を過ぎてから沓掛を下って約1里東に川があり、ここまでが尾張だと書かれている。

「室町時代の後半になると、二村山に変わって田楽ケ窪の地名が登場し、それも物騒で旅人に恐れられていた所として記されている」

「この新しい経路への移行は天正2年から行なわれた尾張国内の道路整備が契機であったものと考えられる」

同書432ページ

室町前半までは二村山の峠越えの様子が多々見られるが、室町後期、つまり『名所方角抄』辺りでは二村山を南に迂回していたようにも考えられる。田楽窪は「野」であったというので平地であっても耕作地ではない。強盗事件が多数発生していたようである。後世から考えると山道を行った方が犯罪率が高まりそうだが、どうやら逆らしいのが面白い。

上の引用で「この新しい経路」とあるのは、近世東海道を指す。1574(天正2)年に交通網がリセットされ、それに伴って二村山・田楽窪ルートが縮小されたのだろう。家忠日記で確認すると、少し下った天正10年に記述が見つかった。

十三日[己亥]雨降、岡崎迄越候、城へ出候、

十四日[庚子]鳴海迄越候、

→愛知県史資料編11 1521「家忠日記」天正10年6月

本能寺の変の後に、徳川家康が上京するために鳴海城に入った。この時には降雨の中岡崎を出発して、翌日鳴海に到着している。経路は特に触れていない。ついで翌年は三河が大洪水に見舞われる。

(天正)十一[癸未]大洪水、此ノ年二・三度降、人皆ナ死ス、

→愛知県史資料編12 145「王稔合集記 龍渓院文書」

廿日[庚子]大雨降、五十年已来大水ニ候、御祝言も延候、

廿一日[辛丑]白すか迄帰候、雨降、御陳来十二日迄延候、

廿二日[壬寅]雨降、ふかうそヘかへり候、中島・永良堤入之口皆々切候、三川中堤所々きれ候、

廿三日[癸卯]雨降、申酉間ニ地震候、大水出候、廿日之水よりひろ高く候、

→愛知県史資料編12 144「家忠日記」天正11年7月

家忠日記で祝言といっているのは、家康次女良正院殿が北条氏直に嫁すことを指す。ちょうど嫁入りで出発する折りに、大洪水になってしまったようだ。20日の予定が翌日になり、止まないようなので12日まで大きく延期となった。22日に家忠が自宅の深溝へ帰ったところ、三河全域の堤防が決壊したという。続いて23日夕刻に地震があって更なる洪水につながった。この大水害が三河側の街道位置も変えた可能性があるため、念のため引用する。

八日[乙酉]雨降、岡崎迄出陣候ヘハ、路次迄可被越之由御意にて、矢作越候、

九日[丙戍]あの迄着陣候、

十日[丁亥]酒左同心にて鳴海迄着陣候、

十一日[戊子]

十二日[己丑]山崎迄着陣候、伊賀・大和御味方ニまいり候由候、

十三日[庚寅]津島迄着陣候、

→愛知県史資料編12 292「家忠日記」天正12年3月

羽柴方と対戦中だった際の叙述。岡崎から一気に鳴海まで行った天正10年と異なり、阿野で1泊している。翌日の鳴海で酒井忠次と合流しているので阿野駐屯は時間調整だったのだろう。豊明市阿野は現在でも一里塚が残っている。この段階でほぼ近世東海道が出来上がっていたのだろう。

七日[庚戌]若君様御上洛候、岡崎越候、今度之御上洛ハ、関白様尾州信雄御むすめ子御養子被成、若君様と御祝言被仰合候、

八日[辛亥]岡崎ニ御逗留候、

九日[壬子]かりや水三左より初くちら被越候、若君様ミやまて御越送ニおさき市場迄まいり候、ふかうそ帰候、

→愛知県史資料編12 1593「家忠日記」天正18年1月

若干蛇足だが、徳川秀忠が人質として上洛する際の様子をみる。1月9日に岡崎から熱田まで見送りに出た家忠は、「おさき市場」までで折り返している。これを安城市の尾崎市場ではないかと愛知県史は想定しているが、少し手前過ぎるような感じも受ける。

憶測ではあるが、名古屋市緑区の尾崎山にあった市場かも知れない。この北側には扇川があり古来からの渡河地点である鴻仏目があり、すぐ東を鎌倉道が通っているので市場が立つ条件は整っている。であるならば、天正18年段階では条件によって鎌倉道が使われていた証左になる。引き続き注意して史料を見ていこうと思う。

以上をまとめると、1574(天正2)年~1584(天正12)年の間で岡崎~鳴海は大きく南下して組み換えられている。その要因について『なごやの鎌倉街道をさがず』(風媒社・2012年)で池田誠一氏は「江戸時代の東海道は、名古屋付近では鎌倉街道とは別の経路が選択されています。名古屋南部の鎌倉街道のルートを決めていたのは知立の北の逢妻川の干潟と鳴海潟だったと考えられています」と述べている。この2つの干潟が陸地化する過程で、より近距離となる近世東海道に道が移ったということだ。逆にいうと、逢妻川・境川・扇川・天白川の状況によっては鎌倉道でなければ通れないこともあった。それが戦国末から近世初頭のルートだと考えればよいと思う。

義元の敗死は「田楽窪」であり、それに伴って自落したのは沓掛城。そして沓掛城で重要な文書を焼失した被官がいたことなどから、永禄3年に義元が死んだ背景には鎌倉道があったと考えられる。潟の陸地化も進んではいるがインフラの未整備で鎌倉道が選ばれていたと、現時点では考えておこうと思う。とはいえ南下のショートカットは徐々に現われてきて、天白川の渡河地点は下の道(笠寺~丹下)が選ばれ、二村山ではなく田楽窪を迂回していたということだろう。

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