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北条氏照、河田伯耆守に、武田方の攻撃状況を伝える

遥ゝ不申通候之条、馳一翰候、先日枕流斎帰路以後、早ゝ可及御返答、敵動故遅ゝ、重而以枕流斎可申入候、雖然如聞得者、越中口為御静謐、于今彼口ニ被立御馬之由候条、先山吉方訖内義申届候、此飛脚ニ案内者被指副、無相違被相透給候、万一飛脚以下越山就被相留者、自其地山吉方へ之一札被相届、彼回報早ゝ可給置候、憑入候、抑今度信玄不慮ニ至于武相出張候、臼井峠打越、不移時日、当城へ寄来候、信甲之者、年来覚悟を存、弱敵ニ候条、宿三口へ出人数、両日共ニ終日遂戦、度ゝ得勝利、敵無際限討捕、手負之儀者、不知其数候、両日陣取、三日目ニハ夜中当地を引離、武相境ニ候号杉山峠山を取越候、其上首尾一理ニ至于相州令一動、去五日、津久井筋退散候、自元切所可入様無之候条、小荷駄以下切落、人数計致夜除候、六日早天、氏政ニハ未被懸着候間、先衆四手五手之間取切所、懸足軽、敵押崩、宗之者数多討捕候キ、敵除口ニ付而、乱備むたと山嶮岨成方へ取着候人数者、此方ニも押なだされ候キ、併越度者無之候、山家人数遣、自由ニ依不罷成、今般信玄不討留事、無念千万ニ候、猶以彼飛脚ニ案内者被指副、可給候、就無左者、山吉方へ之一札、速ニ被相届、返札待入候、於其地有遅ゝ者、曲有間敷候、恐ゝ謹言、

拾月廿四日

 源三 氏照(花押)

河田伯耆守殿 参

→戦国遺文 後北条氏編1325「北条氏照書状」(上杉文書)

1569(永禄12)年に比定。

 ずっとご連絡せずにいましたので、一報を馳せます。先日の枕流斎の帰路以降、早々にご返答するべきで、敵の作戦が遅々としており、重ねて枕流斎をもって申し入れるべきでしょう。とはいえども聞き得たところでは、越中方面を制圧なさり、今はあの方面にお馬を立てられておられるとのことですから、まず山吉まで内密に申し届けます。この飛脚に道案内を指し添えて、相違なく移動できるようにお願いします。万一飛脚以下が越山を留められるならば、その地より山吉方への手紙をお届けいただいて、あの回報は早々に置いていただきますよう、お頼みいたします。そもそもこの度信玄がいきなり武蔵・相模国へ出撃しました。碓氷峠を越えて、時間をかけず当城へ寄せて来ました。信濃・甲斐国の者は年来覚悟しており、弱敵だったので、宿の3つの口へ部隊を出し、両日ともに1日中戦って度々勝利を得、敵を際限なく討ち取り、負傷者についてはその数が判らない程です。両日陣を取って、3日目には夜中に当地を離脱し、武蔵・相模の国境にある杉山峠山という所を越えていきました。その上で『首尾一理』に相模国で作戦し、去る5日、津久井筋へ退却しました。もとより切所で入りようがなかったので、小荷駄以下を切り落とし、人員のみで夜間撤退しました。6日早朝、氏政はまだ駆けつけない内にと、先鋒が4~5分隊で切所に取り掛かったので、足軽を仕掛け、敵を押し崩し、主だった者を多数討ち取りました。敵の退却に当たっては、備えを乱し『むたと』険阻な斜面に取り付いた人数は、こちらへ押し雪崩れて来ました。ということで失敗はありませんでした。山家の部隊が送られて自由になりませんでした。この機会に信玄を討ち取れなかったこと、無念千万です。更にもってあの飛脚に案内を指し添えていただきますように。そうでないなら、山吉方への手紙、速やかに届けられますよう。お返事お待ちしております。その地において遅々とするようなら、詰まらないことでしょう。

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