『敗者の日本史10 小田原合戦と北条氏』(黒田基樹著・吉川弘文館2013)について、もう1点指摘する。
景勝は武田氏旧臣の遠山丹波守(もと右馬助、元来は北条氏家臣の小幡勘解由左衛門尉)に対して沼田在城を承認し、信濃八幡(長野市)で新知行を与えている(「上杉博物館所蔵文書」上越二四三三)。これによって遠山が同城在城衆の一人であったことがわかるが、おそらく遠山は昌幸に従う存在で、同時に景勝に従うという関係にあったのであろう。【同書53ページ】
遠山丹波守というと、後北条氏にとっては特別な名前だ。江戸城代を務めた武蔵遠山氏の初代直景が名乗り、次代の綱景も丹波守を継いでいる。この名を使うのは、後北条氏への遠慮が全くないということだ。ということで文中指摘の文書をアップしてみた。確かに「遠山丹波守」とある。が、この遠山が右馬助を名乗ったということは判らない。黒田氏がどこからこの傍証を得たかは不明だ。
また、小幡勘解由左衛門尉の後身であるという指摘も謎としかいいようがない。この小幡氏は小机領の大豆戸を本領とする旗本であって、上野国小幡氏とは異なる。1561(永禄4)年にも一貫して後北条方であり、途中で武田氏についたという資料は見たことがない(後北条氏人名辞典にもそういった記述はない)。
2年後の1584(天正12)年に景勝が発給した文書では、遠山丹波守に宛て行なわれる筈だった八幡領は元の領主松田氏に安堵されている。この頃真田氏はまだ徳川方だったから、遠山丹波守が真田方の人間である点とは矛盾しない。昭和村の公式Webサイトの中に「加藤丹波守切腹石」というページがある。沼田の端城である森下で合戦があったのは同時代史料で確認できるし、遠山か加藤かは不明だが沼田に丹波守がいた可能性は高い。