追而、三ヶ条之儀、諸人之比量不可然候間、申事ニ候、併於何事も、連ゝ存分ニ可相極候、是ハ以他筆ヒソカニ書付候、仍如件、

[午]五月十三日

 朱印

木呂子新左衛門殿

→戦国遺文 後北条氏編2340「上田長則朱印状写」(岡谷家譜)

天正10年に比定。

 追伸。3点のこと。皆の手前もあって申したのです。ですから、何事も出来る範囲で追い追い決めてくれればよいのです。これは別の筆で秘かに書き付けます。

  就大塚之郷任置、具申遣候、能ゝ可致分別候、

一、若年之間ハ、先ゝ親之以苦労致奉公儀、古来法度之様歟、雖然、譜代之仁ト云、親子数多之儀ト云、彼是共ニ不准自余、如此候、弥其方覚語見届候ハ、何分ニモ可引立間、心易可存事、

棟別・段銭・人足、此三ヶ条ハ、自・他国共ニ法度之間、不可指置候事、[猶別紙ニ有]

右、朝暮無油断、存分ニ被嗜、可為肝要候、条ゝ、鈴木修理ニ申含候、仍如件、

天正十年[壬午]五月十三日

 長則判

木呂子新左衛門殿

→戦国遺文 後北条氏編2338「上田長則判物写」(岡谷家譜)

 大塚の郷をお任せする件、詳しくお伝えしました。よく考えて治めて下さい。

一、若年のうちは、まず最初に親の苦労で奉公すること。古来からのしきたりでしょうか。そうはいっても、譜代の出自であることといい、数代にわたって仕えてくれたことといい、どちらを考慮しても他とは異なります。このことから、あなたの頑張り次第ではもっと引き立てますから、ご安心下さい。棟別・段銭の徴税と人足の提供、この3点はこの国でも他国でも決まり事ですから、放っておいてはなりません(更に別紙に書きました)。

 右のこと、朝も夜も油断なく、充分に勤めることが重要です。それぞれ鈴木修理に申し含めています。

 覚

一人衆改之事、

一猶普請等之事、

  [付、人衆引分而も、自由ニ為可召仕候、]

一向西上州、越衆可為出張由、安房守注進候事、

  [付、口上、]

  以上

三月十一日

「貼紙(「調」朱印)」

小幡兵衛尉殿

→小田原市史2043「北条氏直覚書写」(東京都目黒区 尊経閣所蔵小幡文書)

天正18年に比定。

 覚え書き。一、部隊の人員を検査すること。一、さらに普請などのこと(部隊を分割することも自由に行なうべきでしょう)。一、西上野国に向かって越後衆が出撃してきたと、安房守が報告してきましたこと。その他は口上にて。以上。

「(懸紙ウワ書)「[異筆]天正十八寅三月十三到来」[墨引]小幡兵衛尉殿 自小田原[墨引]」

羽柴去三日京を立、五日之内駿河へ打着由、懸入之者共申候、然則敵之動可為近ゝ候、諸口之備堅固ニ候間、肝要候、於此上、為不可有油断、両条以使申候、此節雖無申迄候、弥無油断、万事仕置専一候、恐ゝ謹言、

三月十一日

 氏直(花押)

小幡兵衛尉殿

→小田原市史2044「北条氏直書状」(神奈川県横浜市 県立文化資料館所蔵小幡文書)

天正18年に比定。

 羽柴が去る3日に京を発ち、5日のうちに駿河へ到着したとのこと、こちらに駆け込んで来た者たちが言っています。ということで敵の攻撃が近いことでしょう。諸口の防備は堅固にするのが肝要です。この上は油断がないように、2つの事は使者によって伝えます。この期になって申すまでもないことですが、ますます油断なく万事処理することが専ら大切です。

字之儀承候、進之候、又夜前さい藤書付披見、心地好専要候、又何方之押ニ候哉、昨日の所ならハ、昨日の松山与上州衆あかり候高山と、其間往覆の道ニなわしろ共多候キ、うちはを入こね候由、尤候、乍次申候、
 以上
「(ウワ書)房  截」

→小田原市史2240「北条氏政書状」(神奈川県横浜市 県立文化資料館所蔵小幡文書)

天正8年以降に比定。

 字のことは承知しました。進呈します。また、夜の前に斎藤の書付を拝見しました。心地よく、また大切なことです。また、どちらから出撃するのでしょうか。昨日の所ならば、昨日松山・上州の部隊が上がった高山と、そちらの間を行き来する道に苗代が多くありました。打ち入ってこね回すというのがもっともです。ついでながら申し上げます。

先段之文、其砌返答ニ可及由存候へ共、障故遅ゝ、無沙汰ニ無之候、又此度之書付披見、誠祝着無是非候、於氏直一代、其方ニ無沙汰有間敷候、八幡大〓(草冠+廾)偽ニ無之候、向後之儀、万端ニ付而可被申越候、又存分も候者、無内外可承候、必可引立候、猶存分重而可申候、先明朝早ゝ帰路尤候、此さた必御無用ニ候、謹言、

六月三日

 氏直(花押)

小兵衛尉殿

→小田原市史2264「北条氏直書状」(神奈川県横浜市 県立文化資料館所蔵小幡文書)

花押から天正14~15年に比定。

 先段の書簡、その際に返答しようと考えておりましたが、支障があって遅れたためで、粗末に思ったからではありません。また、この度の書付を拝見し、本当に祝着で是非もありません。氏直一代において、あなたを粗末にはしません。八幡大菩薩にかけて偽りはありません。今後のことは、全てにわたってお申し出下さい。また、ご存分があれば内外問わずに承りましょう。必ずお引き立てします。さらに存分を重ねて申します。まずは明朝早々に帰路につくのはごもっともです。このことは内密にお願いします。

「[懸紙ウワ書]小幡兵衛尉殿」

  覚

一西国衆至于沼津近辺打着由候事、

一其山手備模様之事、

一在陣之人衆之着到書立、可被指越事、

  以上

二月廿四日

「[貼紙][「調」朱印]」

小幡兵衛尉殿

→小田原市史2031「北条氏直覚書写」(東京都目黒区尊経閣所蔵小幡文書)

覚え書き。一、西国衆が沼津近辺に到着したこと。一、その山手の防衛の様子のこと。一、在陣の部隊の到着者一覧をお送りいただくこと。以上。

[懸紙ウワ書]「「天正十八二月六日到来」(異筆)

[墨引]小幡兵衛尉殿 自小田原[墨引]」

其元高山之在陣、別而苦労察入候、仍樒柑一籠・一種・江川一樽、進之候、恐ゝ謹言、

二月五日

 [貼紙]「氏直(花押)」

小幡兵衛尉殿

→小田原市史2021「北条氏直書状写」(東京都目黒区 尊経閣文庫所蔵小幡文書)

小田原市史・後北条氏年表ともに天正18年に比定。

 あなたが高山に在陣、とりわけの苦労とお察しします。蜜柑1籠、酒肴1種、江川酒1樽を進呈します。

小幡家中申事有之間、以房州及下知候、雖然、万乙不聞届者、可加退治候、至于其儀者、自房州可有一左右間、人衆払而召連有参陣、万端房州相談、可被走廻候、在所程近候間、郷人一揆以下迄相集、一途可被走廻候、恐ゝ謹言、

九月廿五日

 氏直(花押)

長尾新五郎殿

→小田原市史1966「北条氏直書状」(長尾文書)

小田原市史・後北条氏年表ともに天正17年に比定。

 小幡家中に指示することがあり、安房守から命令しました。とはいえ、万一聞き届けなかったなら退治するべきです。そうなったなら、安房守から連絡があるでしょうから、全部隊を率いて参陣し、全て安房守に相談し活躍なさいますように。居住地がほど近いので、郷村の一揆まで集めて、一途に活躍なさいますよう。

其已来者不申承候、御床敷候、其元如何様之御遊山候哉、承度候、当表無相替儀候、可御心安候、仍散ゝ候へ共、自身調合之間、一つゝミ進之候、并一種進候、猶重而可申候間、不能具候、恐ゝ謹言、

二月四日

 氏直(花押)

小幡兵衛尉殿

→小田原市史1725「北条氏直書状」(源喜堂古文書目録所収小幡文書)

花押形より天正14年に比定。

 それ以来ご連絡いただいていません。お久しぶりです。遊山の様子はいかがでしょう。お聞かせいただきたく思います。こちら方面は異常もありませんので、ご安心下さい。さんざんな代物ですが、私が調合した薬を1包進呈します。また、酒肴1種も送ります。さらに重ねて申しますので、詳しくはお伝えしません。