覚書:北条氏政、清水上野入道に、大方の病状を伝えるで謎として、氏政と清水上野入道の位置関係が不明であることを挙げた。

その後、上田案独斎毛呂土佐守への氏政書状を見た。どちらも「太方」の病状について触れている。『後北条氏家臣人名辞典』では、それぞれの書状の「太方」を、上田案独斎の母親、毛呂土佐守の母親に比定している。しかし、氏政は病状を直接話法で書いているのだから、「太方」は彼の近くにいることは間違いがない。両人の母が人質として小田原におり、それを見舞った氏政が情報共有しようとした可能性もあるものの、毛呂土佐守に対して「折角可有推察候=苦労を察して下さい」と書いた点を考えると、苦労しているのは氏政で病人はその身内であるような書き方である。同時に、上田案独斎に「哀々取延度候=申し訳ないが延期したく」と書いていることは、氏政の身内の都合で何かが延期になっていることを窺わせる。

延期になったのは、7月8日の毛呂土佐守宛の書状冒頭にある「榎本本意=榎本城攻略」への氏政同陣だったと考えられる。毛呂氏の拠点は埼玉県毛呂山、上田氏は同じく埼玉県の東松山。両氏ともに榎本攻撃に参陣していたのだろう。氏政はこの援軍を延期したのではないか。

参考に、8月28日に清水上野入道へ宛てた氏政書状もアップした。ここで氏政が気にしている「西口」とは、上田宛書状で書かれていた「甲州無仕合之儀」すなわち『長篠合戦』後の武田家動向だろう。この段階で後北条・武田は同盟しているから、清水上野入道は三島辺りで情報を探っていたことと思われる。この書状で「太方」のことは触れられていないため、危篤は脱していたものと想定される。

  • 6月23日 氏政が清水上野入道に瑞渓院殿が危篤であると告げる
  • 6月25日 氏政が上田案独斎に瑞渓院殿が危篤であると告げ、何かの延期を表明する
  • 7月08日 氏政が毛呂土佐守の榎本本意を賞し瑞渓院殿の回復を告げる
  • 8月28日 氏政が清水上野入道に東上総の戦況を伝える

 

東上総の戦線は、上総一宮に封じ込められた正木氏の救援に北条氏繁が動いており、既に氏政の出馬が予告されていた。8月の下旬になって急速に後詰作戦が展開しているのも、瑞渓院殿の本復を待った氏政がぎりぎりまで出馬を引っ張った可能性を窺わせる。

武田勝頼が瑞光院殿(寿桂尼=沓屋大方)の訃報を連絡という状況を考えると、当主の母や祖母の健康状態は軍事上の影響があったと考えることもできる。1569(永禄12)年の氏真、1575(天正3)年の氏政ともに、父は死没しており、息子は初陣前だった。

ただ、当主正室については両者で違いが見られ、氏真室は存在が確実だが氏政室は不在だった可能性が高い。このケースは瑞光院殿・瑞渓院殿という母娘が極めて政治的・軍事的存在だったという結論になる可能性もあるかも知れない。今後留意して史料に当たろうと思う。

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