瑞渓院殿の危篤と氏政の出馬延期の相関性を考えているが、天正10年の甲信侵攻作戦での氏政不出馬のケースともつながるように思えて興味深い。この時の氏政は天正3年の榎本攻略時より追い詰められていた。

氏直を主将とする「大手」は甲斐国若神子に滞陣していたものの、新府の徳川方を切り崩せぬまま。加えて、小諸を経由して上野に至る補給線は、徳川方に転じた真田昌幸に塞がれつつあった。

家中存亡の危機と訴え、残存兵を掻き集めていた氏政は、自らも出馬して御坂方面から挟撃すれば徳川方を甲斐国から追い出せると踏んでいた。

しかしその出馬はなく、氏規・氏忠・氏光・氏勝が散発的に出撃したのみであった。次弟格の氏規を残して自らが出撃すれば、一気に戦局が覆った可能性は高い。

この時も瑞渓院殿が重篤だったのかも知れない。翌年10月には氏直と氏政は同時に上野国へ出馬しているから、これまでにはその状況が解消されていたのだろう。

初陣前の嫡男でも、前当主の次弟でも代替できない特殊な役割があるように思える。

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2 comments untill now

  1. マリコ・ポーロ @ 2012-02-25 09:45

    こんにちは。
    武将で、しかも当主で、重病とはいえママの病で出陣しないなどということはあるんですかねえ 。もしそうなら、氏政は、やはり、家族に対して非常に思い入れの強い人だと思いました。 😯

  2. コメントありがとうございます。

    確かに氏政は一族をフォローする書状を多く残していますね(氏政と氏邦は「何だこれ」的な書状が多く残されていて、読んでいて楽しいです)。

    ただ、実母の危篤で後詰を断念するのは無茶っぽい気がします。天正壬午での不出馬と合わせて、色々と考察を続けていこうと思います。ご感想やご質問など気軽にいただけると嬉しく思います 🙂