先日の書評『空白の桶狭間』で触れた、1560(永禄3)年5月19日に氏真が義元に同陣したかの検証を行なってみる。

基本的な情報はこのサイト内の鳴海原合戦時系列による。こちらをご参照のほど。

  • 05月06日、氏真は神原三郎左衛門に文書を発行している。
  • 05月19日、鳴海原合戦で義元討ち死に。
  • 05月22日、三浦内匠助が松井山城守に合戦で義元戦死を告げる。但し左衛門佐の生死は不明とする。
  • 05月25日、氏真が天野安芸守に「今度不慮之儀出来」と告げる。
  • 06月03日、松平元康が三河国内で禁制を発す。
  • 08月16日、朝比奈親徳が三河国在陣。義元討ち死にの際、負傷して戦線から離れていたことを証言。

年次不記載ではあるが、恐らく1560(永禄3)年の4月12日に義元は水野十郎左衛門に尾張出陣を告げているが、その後は動きが判らない。氏真は5月の7~21日の記録がない。ということで、直接的な史料では氏真が尾張に同陣したかは不明としか言いようがない。

それでは、状況証拠ではあるが、氏真が沓掛まで来ていれば納得できる要件を考えてみる。田島・大村両氏が沓掛で文書を失い、それを氏真が補償した件だ。今川当主である氏真が沓掛に持ち込んだと考えた方が自然だし、氏真の逃亡によって沓掛が自落、文書喪失となったなら本人が補償するのは当然である。鳴海城にいる岡部元信への撤退指示も沓掛なら出しやすいだろう。

一方、不可解になる点もある。合戦翌日の20日払暁に岡崎を出発したとして、松井山城守宛の書状作成日の22日日没までに駿府までの138キロメートルを移動する必要がある。1日12時間ずつで3日だと36時間。時速4キロメートルなので馬での移動なら問題はない。ところが、3日の強行軍で疲労困憊している筈の氏真は、5月19日を境にして発給文書が爆発的に増えている。それまでは遠慮がちだったのが嘘のように活発に動いており、氏真周辺が鳴海原合戦の事後を見込んで準備していたかの印象すら受ける。

義元戦死の僅か3日後には対応策を打っている点を考えると、氏真本人が合戦に立ち会い、駿府に戻ってすぐに書状を作ったとは考えがたい。22日の三浦内匠助の書状を見ると、義元戦死は認めている一方で松井宗信は生死不明とし、情報がバラバラに入ってきて混乱している状況も窺われる。25日の氏真書状では、自分がすぐに出馬するだろうと書いている(再出馬ではない)。また、8月16日の朝比奈親徳書状でも氏真が登場しないことから、鳴海原まで氏真が同陣した可能性はかなり低いと思われる。

その後の今川氏は、鳴海原合戦の戦後処理を契機として、知行の宛行や家督継承の承認、訴訟対応へも絡んでいく。太原崇孚を中心とした重臣合議の義元体制から、代表者が側近を介して独裁していく氏真体制へのシフトが急速に進んだと思われる。

翌年閏03月にまで及ぶ長尾景虎の関東席捲では、同盟先の後北条氏に大量の援軍を送った。これも独裁体制がある程度機能していたからこそなし得た即応であろう。

この改革が失敗に終わったのは、04月12日に三河国岡崎城番を勤めていたと思われる松平元康が起こした謀叛が原因だと考える。これを起爆剤として、合議から外された重臣たちとの距離が微妙になり始めた。以後氏真政権は迷走を繰り返していく。

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