現代語と異なり、古文書の『我等』は単数の一人称「私」を表わす。
石田三成が「於我等満足此事候」と言った時、満足したのは三成自身のみである。現代語に釣られてついつい「われら=私達」と読みがちになる。
もう1つ「我々」という言い回しもある。これは「われわれ=私達」だろうか。いくつか調べてみたが、単数と明確に限定できる例は1つだけだった。
知行方之儀、如先代為不入進候、於公私之内も別而頼母敷思召候間、可被守立事、専一候、我ゝ若輩ニ候之間、如此候、粉骨尽就走廻者、弥ゝ可引立候、為後日仍如件
上記は、吉良氏朝が家臣の江戸彦九郎に免税を与える代わりに活躍を期待した文書。ここで「我ゝ若輩ニ候之間」とある。「私達が若輩なので」では明らかに変で、氏朝が「私が若輩なので」と解釈した方が正しい。
では、現代語で言う複数の一人称「私達」はどう表記されるのだろうか。
「抑駿州此方間之義」
「そもそも、駿河国とこちらの間のことは……」
「この度はこちらの存在に関わることなので……」
「大阪へ送りましたこちらの使者……」
上記のように「私達」というよりは「こちら」に近いような言葉(此方・当方)が使われていた。ちなみに「我方」は、たまたまなのか当サイト内で1件もヒットしなかった。
では「等」自体が現代語と違う用法なのだろうか。
「そのほか所持しておられた山林など、年来のように末永く相違のないように……」
上記から考えて、「等=など」で現代語と同じだ。三人称の場合はどうか。具体的には「彼等」「彼者」の2通りがある。意外にも「彼等」の例は少なく3つのみ。
「もしその(=かの)同心が解職されるならば、別の者を入れ替えるように……」
「彼の妄言によりご上洛が滞り……」
「彼が連れていった者たちは守るべき権益のない者です……」
何れも、単数である。「彼者」は例が多いのだが、単数の意味しかない。念のため1例を挙げておく。
「日ごろあの者の屋敷だったとのことで、こちらへ逐次言ってきた筋目があり……」
三人称で複数の場合「者共」がつくようだ。
「東美濃の遠山氏が少しの軍を派遣しており、彼らが帰還して話している内容だそうですから、確実かも知れません……」
現代人から見ると、人称の単数・複数が見分けづらいものだが、注意して解釈していきたいと思う。
4件のコメント
「山林等」の“等”を、「等=など」で現代語と同じだと考えるのは間違っているのではなかろうか。これは「等=トウ」と読み、接尾であって、《同種のものを列挙》し、其の様なものが他にもあることを表しており、現代語の“など”と同じではある。しかし、人を表す名詞や代名詞に付いて、複数であることを表す彼等・我等の「等=ら」とは最初から別の意味ではなかろうか。
コメントありがとうございます。
ご質問の意図が少し把握できていないかも知れませんが、人称代名詞の接尾辞としての『等』と、助動詞としての『等』は分けてご説明した積もりでおりました。どの『等』も存在の並列表現として統一されているのが現代語の使われ方で、『われら』と言う時、それは第一人称複数です。中世では『われら』が第一人称単数となることを不思議に思って色々と史料を見てみた……という記事です。ちなみに、助動詞『等』は『など』と読むパターンも多かったようです。仮名書きの文書で『なと』がよく見られます。
お久しぶりです、いつも勉強させていただいてます。
今回の「我等」もまた興味深いご指摘ですね。「デジタル大辞泉」にも複数の意味のほかに――「一人称の人代名詞。単数を表す。わたくし。わたし。『この君の御夢―にとらせ給へ』〈宇治拾遺・一三〉」とありました。
また、これは裏付けのないことなのですが、「我等」の「等」は「ら」のほかに「とも」とも発音しますので、接尾語「共」の自分の身内を表す名詞に付いて、謙譲の気持ちを表す「わたくしども」と同様な意味での使われ方をしていたのではないかと、ふと思いました。
コメントありがとうございます。こちらこそご無沙汰しております。
『我等』の『等』に謙譲の意が込められているという解釈は面白いと思います。ただ、第三人称『彼等』の『等』も同様に謙譲で考えられるかというと、ちょっと微妙かも知れません。第二人称が『貴所』『貴辺』『貴方』というように、よく複数形のような体裁をとることと関連があるのかも知れませんね。よく注意して史料を見ていこうと思います。