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東下りの閨閥 その1

■序■

後北条・今川・武田女系閨閥図

種徳寺殿の正体について検討していく中で、改めて後北条代々の当主正室が気になってきた。あくまで暫定のものだが、後北条年表と家臣団人名辞典から閨閥のつながりを表にしてみた。私の仮説も織り込んでいるのでご注意を。主な暫定仮説は以下の3つ。

栖徳寺殿

北条宗哲が大森氏との縁が深い。久野の総世寺は大森氏開基であり、箱根別当前任者は大森氏(海実)である。故に大森氏出身の女性であると仮定している。

養珠院殿

以前の記事で堀越公方足利政知の娘で、茶々丸の同母妹が京に送られていたものが氏綱に嫁したと仮定している。

鳳翔院殿

姑の瑞渓院殿と同日死去していることから、近しい間柄だったと判る。出自が出てこないのは身分が低かったためという見方もできるが、院号付きの戒名が明確に伝わっている点が不可解。
一旦話は代わって、皆川広照室は、掛川籠城で客死した中御門宣綱の娘である。従来は北条氏政が猶子にして嫁がせたと言われていたが、徳川家康の元にいたという説が有力になっている。よくよく考えてみるならば、氏康没後に武田と再同盟した段階で、今川家中は殆ど徳川家に行っている。だから、家康の元にいたという説明の方が妥当性がある。では何故氏政が出てくるのかを考えているうちに、宣綱の娘はもう1人おり、それが鳳翔院殿ではないかという仮説が思い浮かんだ。皆川広照室は1590(天正18)年4月8日に自害しており、同年6月12日にあったと思われる鳳翔院殿自害との関連性も窺わせる。
縁を取り持ったのは瑞渓院殿だろう。武田からの嫁である黄梅院殿を離縁した後、瑞渓院殿はこの娘を氏政の継室に据えようとした。瑞渓院殿の母の実家であり姉も嫁いだ中御門だから血筋は最適だ。

■第1世代■

 ~桃源院殿(北川殿)の視点から~

後北条・今川・武田の閨閥図は、通称『北川殿』と呼ばれる桃源院殿から始まる。彼女の出自は備中伊勢家である。その本家である京の伊勢家と駿河今川家との取次をしていた伊勢盛定は、娘を今川義忠と添わせた。その9年後に義忠は戦死してしまう。残された息子を守るため、彼女はあらゆるコネクションを使って人脈を作っていく。

まずは弟の盛時を駿河に呼び、その娘を今川家重臣の三浦氏員に嫁がせた。次いで息子の嫁選びである。家督継承年齢で苦労した割には、氏親の婚姻年齢は高い。32歳という高齢まで結婚を引っ張ったのは、桃源院殿がじっくりと選んだからではないか。もっと穿った見方をすると、彼女は夫の早死にという偶発事故で政治の実権を持てた。これと同じチャンスを嫁に与えるためには、氏親の結婚をなるべく遅らせたほうがよい。頼りない嫁を早く貰うより、こちらを選んだのは自らの実体験に基づく確信があったからだろう。

この嫁選びのためかは不明だが、桃源院殿の長女(栄保・竜津寺殿)は京の三条実望に嫁いでいる。この系譜については後述する。

やがて中御門宣胤の娘が氏親に嫁ぐ。後に寿桂尼を名乗る瑞光院殿で、桃源院殿の忠実な後継者としてその地位を固め始める。実の兄の娘を、今川家最大の実力者朝比奈泰能に娶わせている。ちなみに、彼女の母は甘露寺朝子といい、『親長卿記』で有名な実務官僚甘露寺親長の娘である。

一方、桃源院殿は甥の北条氏綱の婚姻にも介入したように見える。私の推測が正しければ、正親町三条家に引き取られた足利義澄の妹が氏綱前室の養珠院殿となる。この正親町三条家は前述の栄保が嫁いでおり、桃源院殿が関与できた。『北条殿』という称号を実兄の家に与えるために、養珠院殿を下向させたのは桃源院殿である可能性が高いように思う。ところがその養珠院殿が亡くなってしまう。彼女の死後の供養を方々で行った氏綱だが、その一方で喪が明ける前に後妻を娶る。現任の太政大臣近衛尚通の娘であるが、どうも30歳を大きく上回った形式的な婚姻だった可能性が高い。何故それを急いだかというのは、その2年後に亡くなることになる桃源院殿の焦りだったと考えると腑に落ちる。甥の正妻の地位を空けたままでは死ぬに死ねないと思っていたのか。

付表


1467(応仁元)年 桃源院殿(北川殿)今川家に嫁す
1476(文明08)年 今川義忠戦死
1505(永正02)年 瑞光院殿(寿桂尼)今川家に嫁す
1517(永正14)年 瑞雲院殿(大井の方)武田家に嫁す
1527(大永07)年 養珠院殿死去・近衛尚通娘(北の藤)後北条家に嫁す
1529(享禄02)年 桃源院殿死去


1535(天文04)年 瑞渓院殿後北条家に嫁す
1536(天文05)年 5~6月花蔵の乱・7月円光院殿(三条の方)武田家に嫁す
1537(天文06)年 定恵院殿今川家に嫁す


1541(天文10)年 信虎が武田家より追放され今川家に滞在
1550(天文19)年 定恵院殿死去
1552(天文21)年 瑞雲院殿死去
1568(永禄11)年 瑞光院殿死去・今川家滅亡
1570(元亀元)年 円光院殿死去


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