大関弥七郎方飛脚被差下候条、令啓達候、先日景勝、天徳寺使者ニ御返事之通、近ゝ可有御上洛之由相聞候、於我等満足此事候、并御為可然候、若御上候儀、北条方承候而、可差止為計策、至足利号出勢、其元へ可相働旨、内ゝ令沙汰、御上を可相支調略可有之候哉、其内北条骨肉之仁を差上、公儀可相勤事治定候、縦其表へ之動必定にて、一旦御分領雖被及御迷惑候、有御上洛公儀相済候者、結句御仕合可然存候、彼方之調儀風説ニ被驚、御上延引之間ニ北条陸奥守被罷上、種ゝ被申掠者、既御為不可然候歟、菟角一刻も被急御上国奉待候、御進上物等何之御御造作無用候、被抛万事、先御上専一存候、於此方御用等、為我等可申付候、可御心安候、恐惶謹言、
三月十一日
三成(花押)
宇都宮弥三郎殿
参人々御中
→小田原市史 資料編 原始・古代・中世Ⅰ「石田三成書状写」(宇都宮氏家蔵文書下)
1589(天正17)年に比定。
大関弥七郎(親憲)へ飛脚を下らせますので、ご連絡します。先日(上杉)景勝・天徳寺(佐野綱房)の使者へのお返事では、近々ご上洛なさるとのこと。私にとって満足とはこのことです。同時にあなたのお為にもなるでしょう。もしご上洛なさるなら、北条のことは承って、策を講じて差し止めます。足利に来て出陣したとして、あなたに攻撃してきた旨を内々に報告させ、御上(羽柴秀吉)が宇都宮方の支援となるよう謀りましょうか。そのうちに北条が身内の人間を上洛させ、公儀(羽柴政権)に出仕することとなります。たとえその方面での攻撃があって一旦は領地が困ったとになったしても、ご上洛して出仕が済んだら、結局はよい方向に落ち着くでしょう。そちらの計略や風説に驚いてご上洛を延引している間に、北条陸奥守(氏照)が京に上り色々と讒言したら、もうお為にはなれないでしょう。とにかく一刻も早く上られて『国』でお待ち下さい。ご進上の物品など何の準備も要りません。全てをなげうって、まず上ることが専一に思います。こちらに来れば御用などは私に申し付けて下さい。ご安心下さいますよう。
[…] 石田三成が「於我等満足此事候」と言った時、満足したのは三成自身のみである。現代語に釣られてついつい「われら=私達」と読みがちになる。 […]