1590(天正18)年の8月より後北条分国は徳川家が入封する。以降石垣山がどうなったかを少し考えてみたいと思う。
江戸を本城とした徳川家だったが、1603(慶長8)年に本格着工するまでは暫定的な本拠に過ぎず、分国内で最大の城郭は小田原城である現状は変わらない(見方によっては、天下普請が終わって外郭が完成する1660(万治3)年まで小田原城が主力であるとも言える)。
徳川家では小田原城を直轄の城としており、城の図面には近世を通じて総構が綿密に描き込まれている。仮想敵国である西国大名をここで食い止め、箱根・伊豆をまたいだ兵站線が破綻するのを待つ、という後北条最後の戦略は継承されていると見てよい。
その体制の中で、篠曲輪は早々に姿を消す。他ならぬ徳川家によって攻略された場所なので、これは妥当なところだろう。一方の石垣山に関しては1591(天正19)年銘の瓦が出土したことから、工事が小田原合戦後も継続されていたのは確実である。その持ち主が羽柴か徳川かで様々な意見があるが、私は徳川家が所有したと考えている。羽柴家が石垣山だけを保有するのは、ここまでで挙げた兵站線の問題から難しい。もし徳川が信用できないのであれば、小田原城を直轄地として接収してしまえばよい話である。それをしなかったからには、石垣山ごと相模を渡したと見たほうが自然である。
そのような状況で徳川家が編み出したのは、小田原合戦と同じ状況になっても陥落しない防衛構想だと思う。その中で、早川右岸の揚陸地点を直接攻撃できる拠点として、石垣山を当てたのではないか。
石垣山と早川口が相互作用することで、敵の物資搬送を許さない体制が築ける。小田原本城から石垣山への物資補給は、水之尾経由で行なえばよい。
だが、小田原城の絵図に石垣山が積極的に取り込まれることはなかった。総構の使い方が完全に陸戦主体となり、省みられなかったように思われる。水之尾に対して布陣した羽柴秀次・宇喜田秀家の陣所を中心に御留山・鷹場として重要視したり、海岸線の防備については幕末に台場を作るまで放置していたりという状況があるためだ。
上記を考えると、近世の小田原防衛構想は海路の兵站迎撃を欠く机上の空論だったのかも知れない。