戦国大名で自家宛の文書をきちんと残せている家は少ない。大きな大名では毛利と島津、上杉ぐらいではないだろうか。今川・武田は恐らく焼失したのだと思われる。その中で、後北条の文書の不在が気になって仕方がない。
小田原が開城した混乱に紛れて散逸したとも、氏直が焼却したとも伝わっているが、どちらも納得が行かない。
1590(天正18)年7月05日、後北条家の当主である氏直は弟の氏房を連れて小田原城を出た。この時点で後北条の分国は徳川氏に与えられることは確定していたので、家康は小田原の接収に動く。『小田原市史城郭編』によると、榊原家にはこの時の記念品である銅鑼が残されており、それには「氏直天守の2層目にあった」という伝承が伝わるという。
この段階で、徳川氏にとって後北条文書は稀有の価値を持っている。国衆・百姓とどのような経緯で付き合ってきたのか、紛争をどう解決したのかが丸ごと判るからだ。であれば、徳川氏が散逸させるはずはない。
では、焼却したとされる氏直はどうだろう。彼は伊豆・相模の本領は安堵されると信じ込んでいた節がある。ならば、文書を焼いて統治根拠を失うのは解せない。
丸ごと滅亡と判り父を失った状態だったにせよ、家康に渡してポイントを稼ぎ御家復興を図るのが基本的な考え方だろう。彼の妻は徳川家康の次女だから、話も早い。
万が一氏直が錯乱したとしても、分国を失った彼には文書群しか残されていないのだから、近臣が留めるだろう。紙切れの集合体とはいえ、100年近い蓄積だとすれば蔵の1つ2つは埋まる。焼却するにも時間がかかり、その間に誰かが止めると思われるのだ。
こうなると残されたキーパーソンは氏政しかいない。前回までの『遠過ぎる石垣山』で、氏政が八幡山古郭に氏直のスペースを空けたと推測した。となると重要な文書も、陥落し易い麓の曲輪(氏直天守=近世本丸)ではなく、八幡山古郭にしまわれていた可能性がないだろうか。氏政が城を出るのは氏直の5日後の7月10日で、かなり愚図愚図している。外交にぶれを見せる氏直の行末を案じ、厄介なものも含めて文書を全て消し去ったと。これで、名胡桃を始めとする事件の直接証拠は霧散する。
もし氏政が処分したとして、文書は燃やしたのか……。既に氏直が降伏した以上は、無駄な騒ぎは起こせない。燃やすとしても炊煙に紛れさせるしかないが、末端の兵に機密文書焼却を委ねるのは危険に過ぎる上に量も莫大だ。5日でできることといえば、埋没しかないように思う。巨大な穴蔵に人足ごと埋めたとすれば、忽然と消えたように見えるだろう。
将来、小田原高校や陸上競技場が撤去される日が来れば、驚くような発見があるのかも知れない。半ば以上は願望だが、そう信じたいものだ。