正次
 平次郎 平左衛門 勝之助 実は重正が二男。母は某氏。重直が嗣となる。

永禄七年より東照宮につかへたてまつり、御小姓となり、上和田合戦のとき 魁して戦功あり。[時に十六歳]十二年正月掛川の城攻に味方の兵一人創をかうぶりしりぞく事あたはざるものあり。敵軍より頻に鉄炮を放つがゆへに、是を援むとするものなし。ときに正次すゝんで彼手負を助けて引退きしかば、水野惣兵衛忠基、本多平八郎忠勝等その働を見て言上す。三月七日ふたゝび掛川城を攻たまふのとき、西宿にをいて奮戦し、敵をうちとり、元亀元年六月二十八日姉川の戦ひに首級を得たり。のち三方原長篠の役に供奉し、天正三年八月遠江国小山城をせめらるゝのとき、酒井左衛門尉忠次が手に属して先登にすゝみ、四年高天神にをいて戦を励し、槍下の高名あり。七年諏訪原の役にも軍忠を尽す。八年七月井呂崎に御発向のとき正次等十余騎ふかくすゝみて嶋田の宿にいたる。敵藤枝に陣し、兵を出して合戦にをよばむとすれども、たがひにすゝまず。こゝにをいて味方井呂川をわたりて退むとせしかば、敵これを見て百騎ばかり川のほとりに競ひ来る、ときに正次、大久保治右衛門忠佐、中根源次郎某とおなじくかへし合せて其場をしりぞかず。渡辺弥之助光、池水之助某、戸田喜太郎某等も又馳せくはゝる。このときにあたりて犬塚又内某山陰にありしが、敵梁が指物をみて伏兵あるかと疑ひ、終に川を渉らずして引退く。十二年四月長久手合戦のとき魁して端黒に金紋の指物さしたる敵と組討して、その首を得たり。十八年六月小田原の役に井伊兵部少輔直政が手に属し歩卒七十人を預けらる。直政山角紀伊定勝が守れる篠曲輪を攻るのとき、城外より其要害を穿しむるのところ、二十二日の夜風烈しくして城壁たちまち倒る。直政その虚に乗じて城中に攻入、陣営に火を放つ。こゝに於て城兵等諸々の持口を棄て、拒ぎたゝかふ。味方力戦すといへども後援の兵なきをもつて城外にしりぞく。このとき正次等踏とゝ゛まりて奮戦し、敵兵小旗衆と鑓を合せ創をかうぶり、終に鑓を打おると雖もなを殿して、池水之助某が家臣隍に陥てありしをたすけて引退きしかば、直政が家臣松崎五八郎某、椋原次右衛門政直等その働をみて直政につぐ。直政大に感じて人鬼なりと称し、嶋田義助の薙刀を與ふ。しかれども正次御軍令をそむきし事ありて罪せらるべかりしを、累世の御家人たるをもつてこれを宥められて退居す。のち免さる。慶長十九年大坂御陣のときめされて台徳院殿につかへたてまつり、御鑓奉行となりて供奉し、元和元年の役にもしたがひたてまつる。これよりさき武蔵国入間多摩二郡のうちにをいて采地五百石をたまふ。そのゝちつとめを辞し、六年九月二十八日死す。年七十二。法名道光。麹町の福寿院に葬る。のち代々葬地とす。 妻は紀伊家の臣山田但馬某が女。

 

→「小林正次」(新訂寛政重修諸家譜 16 藤原氏支流)

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