人足四十人指越候、役所きへ一向ぬるゝゝ馬もかけよせ、各来申候、度ゝ雖被仰出無沙汰ニ致候、為其一揆ニ普請道具を召寄、可為致由被仰付処、畢竟奉行人無沙汰故候、瓦つゝき堀切もわつか二間内之由申候、既役所儀をか様ニ致無沙汰候、曲事ニ被思召候、只今被指越四十人ニ、一揆衆五十も百も道具持候者追おろし、人之足不懸程ニきへ立可申、各者役所数日何を致候哉、身を不惜貴自身可致者也、仍如件、

 此人足五日召仕、五日目ニ可戻申者也、

二月廿七日[「武栄」朱印]

内藤代

野口喜兵衛殿

同衆中

安藤右近

同十左衛門

→小田原市史 史料編 中世2 小田原北条1「北条氏康朱印状」(静岡県富士宮市 富士山本宮浅間大社所蔵)

1567(永禄10)年~1571(元亀2)年に比定。

 人足40人を送りました。役所『きへ』が、一向にだらだらと馬も駆け寄せて、各自が来ています。度々仰せ出されたとはいえ無沙汰しています。その一揆に普請道具を集めさせ、実行しろとの指示を出されたところです。結局奉行人が無沙汰しているからです。瓦続きで堀切も僅か2間の内とのことですから、役所のことをこのように無沙汰しているのは曲事だと仰せです。現在送られた40人に、一揆衆50でも100でも道具を持つ者を追い下ろして、人の足が懸からない程に『きへ』を立たせるべきです。各自役所で数日何をしていたのでしょうか。手間を惜しまずあなた自身で処理するように。
 この人足は5日召し使い、5日目に戻すべき者である。

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4 comments untill now

  1. マリコ・ポーロ @ 2010-12-22 12:08

    怒涛の北条関係文書アップ、毎日楽しみに拝見しております。ひとつ質問!
    口語訳される時に、それぞれの人となりを思い浮かべながら文のイメージを変えてらっしゃいますか?それとも原文を訳していると自然にそうなってくるものですか?
    (うまく言い表せませんが、意味伝わりました?)
    氏康・氏政・氏照文書を立て続けに読ませていただいていて感じたので、伺ってみたくなったのです。もしかしたら私の方がそれぞれへの先入観でそう読んでしまうのですかね?
    PS 国府台関係、貼らせていただきました。

  2. コメントありがとうございます。ご質問趣旨了解しました。

    解釈時には、予断をなるべく入れないように心がけています。なので、送り主や宛名は頭に入れないようにして検討しています。とはいえ、氏康や氏政のように強烈な内容を書く方々が相手だと、いつの間にかペースに巻き込まれていることが多いように感じます。解釈側が押し負けているようなニュアンスです。愚痴っぽい上杉輝虎や心配性の武田晴信、人造人間のように感情を入れない今川義元に比べると、氏康・氏政はエキセントリックな性格だったのかと思えてきます。この辺り、従来の後北条史観とずれるかも知れませんね。

    国府台記事、楽しく拝読しました。リンクで参加させていただき、光栄です。これからも宜しくお願いします。

  3. マリコ・ポーロ @ 2010-12-25 22:26

    とても興味深かったので、しつこく失礼致します。
    な~るほど 🙄 。
    そうしてみると、もしかしたら実際に現地に立ったりするよりも、文書類を読んだ方がより生々しくリアルかもしれませんねえ。

  4. 藤木久志氏の『城と隠物の戦国誌 』(朝日選書) で書かれていたのですが、フィールドワーカーの方々のほうが、ロマンティストが多いと。文献研究者は、埋蔵銭を「戦乱から守るために埋めたけど忘れた」と考えるのに対し、「この埋蔵銭は村の境界に置いてまじないに使った」と発掘者は考えるのだそうです。現地で発掘する際に特殊な感覚が生じるのかも知れないと藤木氏は予測をされていました(単純に、古文書読みは世知辛くて捻くれ者が多いのかも知れません)。

    まあ文献から見えてくる事情というのは、極めて限定的・流動的なほうが多いので、現代の地形に惑わされないのならば、現地に立ったほうが雰囲気は掴めると思います。

    と、これでお答えになっていますか? 😕