小田原城跡公園の本丸・二の丸の景観を江戸期のものにするプロジェクトが、小田原市とTBSの間で紛争となっている。TBS著作の番組『噂の!東京マガジン』内で、小田原市が予定している公園内樹木の伐採を揶揄する内容を放映したためである。この伐採は、天守を見通せる8つのビューポイントを用意するためのものだという。
現在進行している案件に対して当サイトは検証しない。ただ、城郭遺構の保存についての興味深い事例だと考えるので、以下の2点について論じてみたい。
1)江戸期の小田原城景観はどうだったか(天守の景観を阻害するほど樹木が高かったか)
2)伐採により可能になる発掘調査で何が判るか
まず1の景観について考える(2については別エントリとする)。
銅門から本丸を見た際、確かに天守は見づらい。上の写真では銅門渡櫓入母屋の左に微かに見えている程度。何度も再建・修築した徳川家の意図や、東海道で参勤交代の大名に睨みを利かせたであろう事を考えると、天守はもっとよく見えたほうが「江戸時代の小田原城」としては正しいと思う。
詳しく解説された『小田原市史 別編 城郭』を元に江戸期小田原城の様子を箇条書きで挙げてみる。
『小田原市史 別編 城郭』(小笠原清編・小田原市)での推測
- 近世小田原城は、徳川家の所有であるという前提が存在。
- 御用米曲輪の米は徳川家のもので、大久保家の蔵は最初旭丘高校前、次いで小田原駅近辺にあった。本丸御殿・天守は徳川家当主が利用するものなので、大久保家当主は二の丸に居住。その本丸御殿は1703(元禄16)年に焼失していたので、幕末に徳川関係者が東海道を通過する際は、二の丸を開放した。御茶壷曲輪は徳川家に献上する茶を置いたという。
- 1590(天正18)年の開城で数十万石の米が後北条氏から徳川氏に付与されたということなので、後北条時代から御用米曲輪は保管庫として使われていた。
- 天守は3代
- 初代[加藤図] 3層入母屋で2重櫓の上に望楼を載せる・1633(寛永10)年地震により倒壊か
- 2代[正保図] 3層で最上階のみ入母屋で他は寄棟、最上階と第2層に勾欄・1703(元禄16)年に地震で倒壊
- 3代[宝永天守] 復興天守と同じだが、上層への低減率が2つの模型で異なる。これは災害による修復時の度に上層階を小さくしたものと考えられる・1870(明治3)年民間に払い下げられ解体
- 2度の再建と度重なる修復によってでも天守を維持しているのは、江戸の出城という意識があったため。初期の本丸・天守は建築費が徳川家から拠出されていた。
- 江戸期は大久保前期・城番期(含む阿部期)・稲葉期・大久保後期に分けられる。
- ~1614(慶長19)年 大久保前期・24年
- ~1632(寛永9)年 城番期・18年
- ~1686(貞享3)年 稲葉期・54年
- ~1871(明治4)年 大久保後期・185年
- 大久保前期では後北条時代の構造を近世化していた。本丸・二の丸・馬屋曲輪・三の丸が石垣で構成されて本格整備されたのは稲葉期。
- 小峰曲輪・御用米曲輪の補修願いが大久保後期に出されているが、石垣にした形跡はない。
- 古写真で常盤木門の近辺は樹木が鬱蒼としている上、橋の欄干も破損したまま。
- 古写真で南曲輪の石垣上には松が生い茂って塀の代わりをしていた(2重櫓も漆喰が剥がれている状態)。
- 発掘により、幸田門跡からは大森時代とも思われる遺構が出た(後世築造による破損がひどかった)。
- 焔硝曲輪・弁財天曲輪・御用米曲輪に関して発掘調査は余り進んでいない。屏風岩は殆ど調査していない。
- 住吉堀の復元過程で、後北条時代の畝堀や井戸、溝が出て当時の縄張りが推測可能になった。
- 馬屋曲輪内には氏康の頃からと伝わる松の古木『住吉松』があった。
- 二の丸と小峰曲輪の間にある矢来門前に『頸塚松』があった。宝永年間の石垣築造で城内から大量の頭蓋骨が出土したので頸塚を作って松を植えたという。
- 本丸には後北条時代からと伝わる『七本松』があった。
- 古写真の植生は現在の城跡に近い印象がある。
■その他書籍による景観の推測
- 松は篝火・松明・松脂などの軍事用照明・燃料として乱獲されたため、植栽例が多い。
- その他に杉・竹・サイカチが多かったという。
上記は『軍需物資から見た戦国合戦』(盛本昌広著・洋泉社新書y)より
- 1854(安政元)年築造の松前城を明治中期に撮影した写真には曲輪内で樹木が多く見られる。
- 植栽が見られた全ての城では、杉か松が植栽されている。松は石垣の上に並木にして塀代わりにしている模様。
- 保全費が足りず、石垣の隙間から雑草が生えている。
- 但し、石垣を膨らませるような事例はないので、ある程度育った木は伐採していたのではないか。
- 広島・大洲・熊本は天守の隣に大樹があって視界を遮っている。
- 小田原城は漆喰も剥がれているひどい状態。明治の古写真を見ても、整備されている城とそうでない城の落差があるが、小田原は徳川系城郭(江戸・名古屋・彦根・大坂・二条)の中では整備不良の最右翼というポジション。
上記は『日本の名城《古写真大図鑑》』(森山英一編著・講談社+α文庫)を見ての所見
馬屋曲輪の松並木を観望。左は銅門。古写真と比較しても、松の高さは幕末と同じ程度。
上記から、幕末の古写真から推測すると伐採することで却って原型から遠ざかると結論できる。但し、古写真の城でもきちんと植栽が整備されている城(大坂・岡山・姫路など)があったため、大久保後期以前の景観を採用するならば、伐採を行なうべきだろう。
『小田原市史 別編 城郭』は絶版となって入手が難しく、ネット上でも公開されていない。このために小田原城に対する説明が行き届かない可能性が高い。小田原市は今後の城跡公園整備に合わせて復刊、もしくは入門書刊行、電子化による公開を行なうべきではないか。また、江戸期小田原城といっても、いつの段階かを小田原市は明示していない。近世の時期によって小田原城は全く違う状態になるため、説明すべきと考える。