小田原城内の樹木伐採で出てくるかも知れない遺構については、下記にある既存の事例が参考になるだろう。

『小田原市史 別編 城郭』(小笠原清編・小田原市)による推測

  1. 小田原城の始原(大森氏以前)は御前曲輪東にある異質な構造物にある。
  2. 現在の本丸が城地になった当初、現・御用米曲輪は二の丸、蓮池が正面の堀だった。
  3. 「氏康の居館は大池3つに囲まれている」という天文20年の文献から、蓮池・二の丸前の池・南曲輪前の池が個別に存在しており、これをつなぐことで二の丸外郭が構成された。
  4. 弁財天曲輪は攻撃的な大手門で、上杉輝虎・武田晴信攻撃時の幸田口(四ツ門・蓮池の門・蓮池口の四ツ門・四ツ門蓮池)はここ。
  5. 焔硝曲輪は弁財天曲輪を避けた敵を呼び込むトラップ。
  6. 馬屋曲輪は後北条時代に防御的構造物として作られた。
  7. 三の丸外郭も後北条時代に遡れる可能性があるが、遺構が完全に重なっているため畝堀の検出は難しい。
  8. 石垣山城から1591(天正19)年銘の瓦が出土しており、小田原合戦後も石垣山城が築造されていたことが確定している。
  9. 御用米曲輪にあったと思われる米・焔硝曲輪にあった小田原石の構造物については後北条からの伝承が絡んでいる。

上記を受けて、発掘があった場合の成果予想を挙げてみる。

蓮池近辺からは、1561(永禄4)年の上杉・1569(永禄12)年の武田氏の小田原攻城時の遺物が出てくる可能性がある(永禄4年と比定される幻庵書状には鉄炮500挺とある)。うまくいけば、後北条氏だけでなく、上杉・武田各氏の遺物も見つかるだろう。また、1590(天正18)年小田原開城時に後北条氏保管文書が全てなくなったことを考えると、何らかの形で近世の本丸・二の丸・三の丸に埋蔵されている可能性もごく僅かだが残されている(既に出土された遺物には木簡が含まれる)。

このほか、東国で最も築城技術が発達した後北条の縄張りに、徳川の石塁技術がどう組み合わさったのかを検証できる点も重要だ。井戸・堀の位置が後北条時代・大久保前期・稲葉期では異なるとの事例が住吉堀の発掘で明かされた。さらには、築城が続いていた石垣山城との関連も気にかかる。羽柴秀吉が徳川家康を後北条旧領に封じた際、小田原城主とともに石垣山城主にも大久保氏を任命したという説があるという。そうなると、石垣山城がどこかで廃城となって小田原に資材が移った可能性が大きい。この実態も、発掘で解明されるだろう。

そして最も重要な点は、大森氏時代と思われる遺構が絡んでいるという点である。このことは、二の丸を含む本丸周辺の地下には、1417(応永24)年~1871(明治4)年までの454年に亘る日本城郭の変遷が含まれている可能性を示唆する。関東においてはこれに比肩するものは江戸城しかないが、首都であり皇居となっているこの城を徹底的に発掘することは難しい。鉢形・岩槻も価値が高いと思われるが、近世への変遷で中心拠点ではあり得ない。

城跡内で最も貴重だとされているのは本丸の松で樹齢400年だという。しかし、500年と推測される松は国内に複数存在しており、生態上唯一の存在ではない。一方、中世城郭を極限まで巨大化したり、近世将軍家の出城となったりした城は小田原城しかない。学術から見るならば、どちらを取るかは比べるまでもない。むしろ、伐採によって400年間の気候を把握できるだろう。

このように考えると、城跡公園の植栽全てを伐採して非破壊調査を行ない、その後は遺構を全て埋め戻して後世の精査を待つべきと結論付けられる。

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