2009(平成21)年のNHK大河ドラマ『天地人』で過剰な悪役演出をとられ、またWikipediaの記述も現在停止中となっている遠山康光について、その実像に近い情報を掲出してみたいと思う。
この氏族は、幕府奉公衆だった美濃国明智景保の嫡男直景が堀越公方の足利政知に従って伊豆に行き、後に伊勢宗瑞に仕えたのが始まりという。美濃遠山庄は、天竜寺香厳院に1460(寛正元)年に寄進されており、この香厳院は足利政知が入院したことがある。この縁で同行し、どこかのタイミングで伊勢宗瑞に従ったのだろう。
直景の嫡男綱景は、第1次国府台合戦で戦功を挙げたり、鎌倉代官も務めて江戸城代・葛西城主となる。1564(永禄7)年の第2次国府台合戦で嫡男隼人佑とともに戦死。
康光はその綱景の弟で、氏康側近となり『康』の偏諱を受ける。仮名は左衛門尉で略称が「遠左」。官途名、生没年は不詳。嫡男は康英で、仮名は左衛門尉で同じ(美濃遠山氏にも左衛門尉がいてややこしい)。妻は上杉景虎の母(氏康側室)の姉だと伝わる。
天文20年が文書初出。江戸方面の司令官となった兄の綱景に代わって鎌倉代官を務めていた模様。1559(永禄2)年には、北条綱成父子とともに浦賀城に駐屯していたことが判る(北条氏康書状)。水軍梶原景宗の慰留交渉で奏者を務めたこともあり、水軍を管理も行なっていたと思われる。
1569(永禄12)年の越相同盟交渉では、康英とともに後北条側の交渉実務者となる(大石芳綱書状)。1569(永禄12)年3月には、上杉景虎とともに越後に赴き、景虎の家臣となった。
御館の乱では景虎と北条氏政との連絡に活躍する。1578(天正6)年10月28日、赤川新兵衛尉宛の景虎朱印状で奏者として名があるのが終見。
上記が『後北条氏家臣団人名辞典』からの抜粋となる。ちなみに、康光嫡男の康英は関東に留まり、水軍の指揮に当たった。後北条滅亡後は羽柴秀吉朱印状にて中村一氏家臣に任じられたという。
一方『戦国人名辞典』によると、1570(元亀元)年3月に「氏康・氏政父子から上杉輝虎との意思不通の責任を負わされている」とある。
越相同盟は当初から困難が予想された上、氏照・氏邦の2系統を併用した氏康への不信が生じるなどで混迷を極めた。また、氏政が自身の三男太田源五郎(国増丸)の人質提出を拒んだため、急遽景虎を送り込むこととなるが、この人選には越後折衝役である康光が景虎の伯父に当たる要素が大きいように思う。
康光の行動は前述大石芳綱書状で実見できるが、越相同盟交渉の最中にも、韮山防衛に駆り出されたり、越後方滞在費を自弁したりで、挙句に越後の使者から同情されている。誠実過ぎたが故に越相同盟交渉で損な役回りを割り当てられ、最期も報われなかった。息子の康英が巻き込まれなかったことだけが救いだったろう(一説には息子「直次」が御館の乱で戦死したという)。