1590(天正18)年7月11日。北条氏政・氏照と松田憲秀の切腹をもって戦国大名後北条氏は滅亡する。この日をグレゴリオ暦に改めると今日、8月10日となる。前年11月24日の羽柴氏宣戦布告状発行から、実に223日間の激闘だった。
滅亡の主因は、羽柴氏への臣従に消極的だったために武力行使を受けたことによる。但し、直接の原因はいわゆる『名胡桃問題』に集約される。
この名胡桃問題を、後北条氏側の立場から少し考えてみたい。
名胡桃は沼田の北西約6kmに位置する城郭で、真田氏の拠点。羽柴秀吉の裁定により、元々真田方だった沼田は後北条氏に明け渡されたが、名胡桃だけは真田氏に残されたままだった。名胡桃は越後からの支援を受けやすい位置にある。このため、後北条氏から見ると沼田防衛に不安を投げかける城だった。
この城を、後北条氏が秀吉に無断で占拠したのが名胡桃問題だ。
この名胡桃問題を真田昌幸・徳川家康から聞いた秀吉は北条氏直に怒りを示す。その弁明として氏直は以下の点を挙げている。
1 名胡桃のことは一切知らない。
2 城主とされる中山の書付を渡す。
3 既に真田がこちらに渡したので紛争には至っていない。とはいえ、越後衆が途中まで出撃しており、信濃国川中島と知行交換するといっている。ご糾明を願いたい。その上で、それ以降加勢すると沼田から連絡があった。越後は一代以前の古い敵であり、あの方面に彼らが進軍したなら沼田は一日も安泰ではないだろう。
4 事の詳細は把握できていないので、家康からの忠告に従って究明を行なう。2~3日中に報告できるだろう。
5 吾妻領は真田が百姓を奪ってしまい1人も残っていない。さらに中条という地では戸籍台帳(?)を渡さなかった。このことは些事と考え報告していない。
「中山」が人名か地名か不明だが、上記氏直書状では「被城主中山書付」としており、名胡桃の城主であった可能性が高い。後北条氏家臣にも中山氏は存在するが、名胡桃近辺で言及されるとすれば、吾妻郡高山村の字名中山を在所とする人物が考えられる。1582(天正10)年末に中山城が後北条方に落とされた際、名胡桃に入ったのかも知れない。
また、氏直は家康に宛てた釈明では以下の点を挙げている。
6 名胡桃城は後北条氏が仕掛けて略取したものではない。それは『中山書付』を見れば判るので渡す。
氏直は、恐らく中山書付の写しを家康にも渡している。かなり自信があったと考えるべきだろう。但し、それに比べて氏政が同日家康に出した釈明状では、名胡桃の話は直接出てこない。「以前鈴木によって氏直が申し伝えたように……」とのみあり、中山書付には言及していない。この「鈴木」は氏政が氏規宛書状で言及している「鈴木被指遣模様、何も心得申候」から考えて、氏政の使者だと考えられる。氏政自身は中山書付の政治的効果を信用していなかったのではないか。
そして12月26日に後北条氏が出した伝馬手形が中山書付と関連している可能性が高い。小田原から沼田まで伝馬4疋が出されており、使用者は中山となっている。運ぶ主体が書類だけなら1疋で問題はない。かなりの人数なり物資なりを運んだようだ(過去に鉢形で舞々の一座を搬送した際、伝馬5疋が出ている)。
それは生き証人として沼田から小田原に拘束された人間ではなかったか。使用者が中山氏だから、彼らは中山氏の監視下にあったのかも知れない。その人々を拘束したまま運送するために伝馬4疋が必要だったと考えられる。
ここで、これまでの考察を順序だててみよう。
段階1 秀吉の裁定で分与された吾妻領支配だが、真田氏に妨害されていると氏直は認識していた。
段階2 真田方の名胡桃城主の中山氏は、離反して後北条方に転ずる。中山氏は「書付」を提出。上杉氏が南下する計画を氏直が知る。
段階3 名胡桃の服属時、真田方か上杉方の人間が捕縛されて小田原に送られていた。この捕縛は羽柴氏・徳川氏に報告していないことから、中山書付が紛糾された際の補強証拠として確保されたと思われる。
段階4 中山書付に全く効果がないことを知った氏直は、虜囚を沼田に返送する。
このことから、中山書付に象徴される出来事は、壮大な囮だったように見える。氏直に対して、宿敵上杉景勝の南下計画暴露・城主が城を明け渡すという好条件・証拠(名分)が豊富にある、という好餌を見せて、「それでも秀吉の裁定を守れるか」という踏み絵を用意したのではないか。そして、氏直は引っ掛かった(氏政は囮だということを薄々感づいていたような気配がある)。
ここでなりふり構わず上洛して秀吉に哀願するかすれば、後北条氏は伊豆・相模・武蔵を安堵されたと思われる。但し、実力主義を放棄した時点で戦国大名後北条氏は消失し、近世大名への脱皮に入ることになるだろう。