(懸紙ウハ書)「 福島和泉守 範為
相阿 御宿所 」尚々路次不自由之処、結句武衛出張ニ付候て御礼遅々候、余ニ無沙汰之様ニ可被思召候条、先被申入候、春ハ早々御礼可被申候、能々御意得肝要候、又面白小絵なと又作之太刀、又ハ刀御床敷候、今度紛失候哉、自然候ハゝ可承候、春可給候、又早雲庵も此間在当地事候間、御うハさのミ申候、哀御隙も候ハゝ与風御下候へかしと申事ニて候、何事も重而可申候、
為御礼堆侍者被上候間、条々彼口上ニ申候、雖不始儀候、万飯尾江州・杉方へ可預御取合候、其以後江州之儀如何御下知候哉、遠州武衛就出張、此も以口上申子細候、関東事河越与早雲和談候之間、一方隙明候、西口之儀も此上候条、早雲庵被相談之間、猶々安候、可御心安候、
一進上之御馬ハ無通路候間、尾州智多より下候て上之方を憑、荷を付候て被上候、然間大内殿杉方へ屋形進覧之馬者、春可上進之由候て、書状にハ被申候へ共、只今ハ不被上候、可有御心得候、
一彼使者、甲斐を信州へ廻、三河通尾州智多へ廻候て、京着候、か様之儀ハ、何へも書状ニハ不被申候間、貴所能々御意得候て、江州へも杉方へも仰届候て可給候、
一三条殿御方之御事、先度も如申候、於氏親不及是非候へ共、又左様にも不被申半之間、可然様ニ何へも可預御調候、是も口上ニ申候、
一飯尾江州遠州羽鳥之事、度々承候、大概領状被申候態夏初晨参を被下候、彼方四、五日間ニ可上由候間、委者其時可申候、大方是も堆侍者ニ申候、
一何へも進覧之物共注文可有之候、堆侍者可被得御意候、猶々委口上ニ申候間令省略候、恐々謹言、
十一月八日
範為(花押)
相阿 御宿所
→戦国遺文 今川氏編「福島範為書状」(尊経閣古文書簒所収飯尾文書)
1511(永正8)年に比定。
ことさら通行が不自由であるところ、挙句に斯波氏が出撃してきたのでお礼が遅れてしまいました。あまりにご無沙汰だと思われましたので、まずお知らせだけして、春には早々にお礼を申し上げるでしょう。よくよくご納得いただくのが大切です。また、趣のある小絵などや、太刀作り、刀に心惹かれます。今度紛失したのでしょうか。万一そうならお伝え下さい。春にいただきたく。また早雲庵もこの間当地にいましたので、お噂だけ言っていました。もしお時間などありましたら、ふらっとお下りいただければと申していました。何れにせよまた申し上げます。
『堆侍者』(承堆)をお礼のため上らせましたので、内容はあの口頭で申します。まだ始まっていないとはいえ、万事を飯尾近江守(貞運)と杉氏のところへ預けて取り持ちを意図しましたが、それ以後近江守のことでどのようにご指示いただけましたでしょうか。遠江国に斯波氏が出撃したことについて、これも口頭で詳細を申しました。関東のことは河越と早雲庵が和談しましたので、一通り片付きました。西方面もこの上はということで、早雲庵と相談しておりますので、いよいよ容易でしょう。ご安心下さい。
進上した馬は交通路が確保できなかったので、尾張国知多より下らせて上方の人に依頼し、荷物をつけて上らせました。ということで大内殿の杉氏へ屋形がお見せする馬は、春に上らせると書状にて申しましたが、現在は上らせていません。ご了解下さい。
あの使者は、甲斐国から信濃国へ迂回し、三河国を通過して尾張国知多へ回り京に着きました。このような状況なので、どこにも書状を送れていません。そちらで斟酌いただいて飯尾近江守へも杉氏へもご連絡をお届け下さいますようお願いします。
三条殿(正親町三条公兄・今川氏親義兄)夫人のこと、前回も申したように氏親には異論はありませんが、また賛成であるとも申さない曖昧な状態なので、しかるべきようにどちらへも調整を預けるべきでしょう。これも口頭にてご説明します。
飯尾近江守に遠江国羽鳥のことを度々お願いしています。領有状況の概略は申されて、わざわざ夏の初めに朝廷へ報告して下さいます。そちらは4~5日間に及ぶとのことですから、詳しくはその時に申しましょう。大方これも『堆侍者』が申します。
全ての進上物は一覧表をがありますので、『堆侍者』がご確認をいただくことでしょう。さらに詳しくは口頭で申しますので省略いたします。