武衛様御陣所度々火事之事
一[永正七年十二月廿八日夜]まきの寺御陣所火事にて花平へ御移候、
一[永正八年 午剋時分]正月五日 花平御陣所・御番所・同御たい所火事
一 二月廿日夜[子剋時分]すゑ野殿御陣所并御被官衆陣所卅間火事
一 同夜[亥剋時分] ミたけ井伊次郎陣所・番所火事 是ハしのひヲ付申候、
一 三月九日[寅剋時分]太田左馬助陣所初而其外卅余火事
同、
一 形部城へ敵度々討詰候事
[永正八年]
二月十二日 引間衆物見ニ出候跡ニ三百計、
七月九日 引間衆原口へ五百計、
十月十七日 武衛御自身四手ニ分、千余ニて討詰候き、
同十九日 形部口原口へ千五百計、是ハ五手ニ分、詰候き、
同廿三日 形部口原口へ人数千余ニて、二手ニ分、詰候き、
同廿四日 形部口へ井伊次良四百計にて、
原口へ引間衆千余にて、討詰候、武衛御自身、気賀へ打詰させられ候、御人数千計にて候き、
十一月五日 形部口へ三百計、
同六日 片山半六大将にて、武衛衆五百計打まハり、
同廿七日 形部口より気賀へ働候衆七八百、
十二月一日 村櫛・新津へ詰候而、退候処を出合、しやうし淵にて、のふしはしかへさせ候き、
[永正九年]
正月十日 夜中ニ五百計、打詰候ツ、
同廿一日 人数五百計にて、形部口へてちかく打詰候き、
同三月九日 川むかいまて、七八百打出候ツる、
同十七日 気賀へ打詰、むきをなけ、一日野ふしはしかへ候き、引間ハ原口へ打詰、
巳剋より未剋まてやいくさてちかく仕候、
四月六日 武衛衆・引間衆・井伊衆千五百計にて、三手ニ分、ほり河へ一手打詰、せめ入候を、形部より出合、おいこミ、ていたく仕候き、
同廿三日ニ武衛衆・井伊衆、下気賀まて打詰、むきをなけ、苗代をふミ返しのき候を、清水口へよこあひにのふしをかけ、さつゝゝにおいちらし候、
壬四月二日 武衛衆・井伊衆・引間衆太勢にて、村櫛・新津城へ取詰候而、新津のね小屋焼払候を、形部より村櫛へ七十計、舟にて合力仕候、
同三日 井伊谷へ朝かけニ形部より働候而、三人いけ取退候を、敵したい候間、城より出合候而、神明ふちにて、はたえを合をいこミ退候き、
其後も度々罷出候へ共、指儀不仕候処、則引間為御退治、御進発、原河ニ御座之後者、一向不相働候、
伊達蔵人丞忠宗
→戦国遺文 今川氏編「伊達忠宗軍忠状」(京都大学総合博物館所蔵駿河伊達文書)
武衛様(斯波氏)陣営地が度々火事となったこと。
1510(永正7)年12月28日夜。まきの寺のご陣所が火事で花平へ移動しました。
1511(永正8)年1月5日正午頃。花平の陣所・番所・台所で出火。
同年2月20日午前零時頃。すゑ野殿の陣所とその被官衆の陣所30間で出火。同夜22時頃。御嶽の井伊次郎陣所・番所で出火。これは忍びに指示したものです。
同年3月9日4時頃。太田左馬助の陣所を始めとしてその他30余で出火。
同じく
刑部城へ出撃し度々敵を討ち詰めたこと。
1511(永正8)年、
2月12日。引間衆が偵察に出た後に2~300ばかり。
7月9日。引間衆原口(掛川市)へ500ばかり。
10月17日。武衛(斯波義達)自身が4手に分かれて1000余人で打ち詰めました。
同月19日。刑部口・原口へ1,500ばかり、これは5手に分かれて詰めました。
同月23日。刑部口・原口へ1,000余人にて、2手に分かれて詰めました。
同月24日。刑部口に井伊次郎400ばかりにて、原口へ引間衆1,000余人にて討ち詰めました。武衛ご自身が気賀(浜松市北区)へ討ち詰められまして、その軍勢は数千ばかりでした。
11月5日。刑部口へ300ばかり。
同月6日。片山半六が大将で武衛衆500ばかりが討ち回り。
同月27日。刑部口より気賀へ出撃した衆が7~800。
12月1日。村櫛(浜松市西区)・新津へ詰めまして、退却するところを邀撃し、しょうじ淵で野武士に橋換えさせました。
1512(永正9)年、
1月10日。夜中に500ばかり討ち詰めました。
同月21日。500ばかりで刑部口へ接近して討ち詰めました。
3月9日。川向かいまで7~800が出撃してきました。
同月17日。気賀へ討ち詰め、『むき』を投げ、1日野武士橋換えし、引間は原口へ討ち詰め、
4月6日。武衛衆・引間衆・井伊衆が1,500ばかりで3点に分かれ、堀河へ一手に討ち詰めて攻め入りましたところを、刑部から邀撃して追い込み、手痛く打撃を与えました。
同月23日に武衛衆・井伊衆が、下気賀にまで討ち詰め、『むき』(武器?)を投げ苗代を踏み返し退却したところを、清水口へ横合いから野武士を仕掛け、散り散りに追い散らしました。
閏4月2日。武衛衆・井伊衆・引間衆が多勢で、村櫛・新津城へ取り詰めて、新津の根小屋を焼き払ったところを、刑部から村櫛へ70ばかりで援軍を出しました。
同月3日。刑部から井伊谷に朝駆けして活躍し、3名を生け捕りしたところ、敵が追撃してきましたので、城から出撃し、神明淵で『はたえ』を合わせ追い込み退きました。
その後も度々出撃しましたが、さしたることもなかったのですが、引間を退治するためにご進発、原河におられる後は一向に働きもありませんでした。