(端裏書)「松平左近蔵人殿寄進状 当寺八代之内 宝誉」

 寄進状之事

右、為逆修、町田[弐反壱石]并藤[弐斗五升]、合五俵成之分、永代寄進申候、於子々孫々、不可有違乱者也、仍如件、

天文十一年[ミつのへ寅] 六月日

松平蔵人佐 信孝(花押)

「寄進状」

大樹寺

→愛知県史 資料編10「松平信孝寄進状」(大樹寺文書)

 寄進状のこと。逆修のため、町田(2反1石)並びに藤(2斗5升)の合わせて5俵分の収穫を永代で寄進いたします。子々孫々において異議のないように。

中根弥太郎殿ニ弐十貫文、大竹源六殿ニハ主の名田を城へ納候分進之候、相のこり七人ニ、百貫文進之候、少もふさた有ましく候、万一無為ニ罷成候共、三木へ返置候事ハ、八幡も照らん有ましく候、両人へ御まかせ候へく候、為後日如件、

天文十二 六月十四日

 阿部 大蔵(花押)

 酒与四 正家(花押)

中根弥太郎殿

大竹源六殿

→愛知県史 資料編10「酒井正家・阿部大蔵連署証状」(大竹文書)

 中根弥太郎殿に20貫文、大竹源六殿には、主の名田を城へ納める分を進呈します。残りの7人には100貫文を進呈します。少しでも処置を止めることはありません。万一和睦したとしても、三木へ返還することは、八幡神も照覧あれ、両人へお任せすることでしょう。後日のためこのようにします。

今度大蔵以弄、此方へ御同心祝着候、如約束為給知百貫之分進置候、然者鷹落名田・野羽之前々の給分、不入ニ進之候、此両所相改、其都合ハはすみ所々ニ而引替、百貫之首尾ニ可被執候、猶委細阿大可申候、弥々御走舞候て、三木落居候やうニ憑入候、於末代給知不可有相違候、仍如件、

天文十弐卯

八月十日

岡三 広忠(花押)

内藤甚三殿

→愛知県史 資料編10「松平広忠判物」(内藤文書)

 この度大蔵が調略したことでこちらへ同心され、祝着です。約束のように100貫文分の給地を与えます。ということで高落の名田・野羽の前々の給分は不入とします。この両所を改めて、その合計は『はすみ』の所々へ引き替え、100貫となるよう執り行ないます。さらに詳しくは阿部大蔵が申し上げるでしょう。ますます奔走して、三木が落居するようにお頼みいたします。末代まで給地は相違があってはなりません。

三木於引切此方へ走舞候、祝着候、然ハ親名田為給分出置候、別而走舞候へく候、仍如件、

天文十二年六月十六日 御書判

大竹源六殿

→愛知県史 資料編10「松平広忠判物写」(記録御用所本古文書)

 三木において引き切り、こちらへついて奔走し、祝着です。親の名田を給与として与えます。ことさらに奔走するように。

三木於引切、此方へ走舞令祝著候、然者弐十貫遣候、別而走舞へく候、仍如件、

天文十六年

六月六日

広忠

鳥居仁左衛門とのへ

→愛知県史 資料編10「松平広忠判物写」(鳥居家文書)

『三木』は松平信孝と比定。同内容の他文書から、1543(天文12)年の誤記かと思われる。

 三木に引き切るにおいて、こちらへついて奔走し、祝着です。ということで20貫を差し上げます。ことさらに奔走するように。

道甫十三廻為孝養、御寺近所ニ候以真如寺領内参十貫目、永代寄進候、従此内公方年貢、大門築田方へ従御寺弐貫五百五十文可有御納所候、但依其年躰、けんミ可為次第候、田畠小日記別紙有之、作人者誰々雖○被官、被召放、御寺之可為御計候、於子々孫々、聊不可有違乱者也、仍末代之証状如件、

天文十六年丁未十二月五日 岡崎三郎 広忠(花押)

大樹寺 参

(裏書)「鎮誉(花押)」

→愛知県史 資料編10「松平広忠寄進状」(大樹寺文書)

 道甫の13回忌で、お寺の近所にある真如寺領内から30貫目を永代で寄進します。このうちより公方年貢を大門築田方へ、お寺より2貫550文を納付なさって下さい。寺ばかりとするべきなのは、子々孫々において、いささかの違反もないように。末代への証としてこのようにする。

今度三左衛門生害之儀、忠節無比類候、此忠於子々孫々忘間敷候、然者為給恩、万疋之知出置候、雖為何儀候、於末代不可有相違候、在所者別ニ日記出置候也、

天文拾六年

十月廿日

広忠 御在判

筧平三とのへ

→愛知県史 資料編10「松平広忠判物写」(譜諜余録)

 この度三左衛門を殺害したことは忠節比類がありません。この忠義は子々孫々においても忘れてはなりません。ということで恩賞として10,000疋の知行をお出しします。どのようなことがあったとしても、末代まで相違がないように。在所のことは別途記録を出しておきます。

御寺領如来寺分附而大賀久衛門無躰之条々

一 あつかりめんとて押領之事、道閲御寄進より、一向さたもなき事、

一 五位分年貢弐百、同御寺領之田地を分而被取候事、殊せられやう不謂仕立之事、

一 大田五郎左衛門尉久敷作式押而奪取、道念ニ被預事、

一 四郎衛門尉手作之堀田押領之事、

一 大浜経仏雑紙分之手長被取放事、

 右、皆以無躰候、従此方聊も指南憑候ハす候、縦 西忠已来代官候共、機ニあひ候ハすハ、可召放候、台所入之近辺ニ候とて、押たる儀共候、殊更久々本寺・末寺共ニ御寺領・祠堂以下、万事不入之御判候、さて又酉年夏秋・戌之年夏、奉行衆を憑候而成ヶ共改候、其張にも此五ヶ条一向なく候、久兵衛尉も人数連判候、少も手を入させ申間敷候、能々任御異見申候、恐々謹言、

 三月十一日

大樹寺

納所(花押)

石見殿

中嶋新九郎殿

 参

→愛知県史 資料編10「大樹寺納所書状」(大樹寺文書)

道閲を松平長忠・西忠を松平親忠・酉年を1549(天文18)年に比定。

 ご寺領の如来寺分へ大賀久衛門が無理を言ってきた事柄について。一、預かり免と称して横領し、道閲のご寄進から一向に納付がないこと。一、大田五郎左衛門尉が直接管理していた堀田を横領したこと。一、大浜の経仏雑紙費用の手長を取り放たれたこと。
 右は皆もって無理なことです。こちらの指示は少しもありません。たとえ西忠以来の被官だったとしても、機に合わないのであれば解雇するでしょう。台所収入の近辺だということで抑えていたこともあるでしょうが、前々から久しく、本寺・末寺ともにお寺の領地・祠堂以下の万事に対し不入の判形があります。また、酉年の夏と秋、戌年の夏に、奉行衆を使って収穫を調べました。その折にもこの5か条は全くありませんでした。久兵衛尉も加え人々に連判させ、少しも改変させてはなりません。よくよくご意見にお任せいたします。

こゝもとなりかにて弐十俵、明年よりいらんなくしんしやう申へく候、すこしも無さた申ましく候、そのためこ一筆申候、かしく、

天文十三年 十一月十一日

ひろ定(花押)

(ウワ書)「(墨引)ふかうす殿御上さま 参 人々御中
             あんしやうより 与二郎」

→愛知県史資料編10「与二郎ひろ定請文」(本光寺常盤歴史館所蔵文書)

 こちらの収穫より20俵を、来年より違反なく進上いたします。少しの未納もありません。そのまえに一筆差し上げます。

壬子 廿一 三月九日ニ織田備後殿死去、九月駿州義元八事マテ出陣、

→愛知県史 資料編10「定光寺年代記」(定光寺文書)

1552(天文21)年に比定。