こゝもとなりかにて弐十俵、明年よりいらんなくしんしやう申へく候、すこしも無さた申ましく候、そのためこ一筆申候、かしく、
天文十三年 十一月十一日
ひろ定(花押)
(ウワ書)「(墨引)ふかうす殿御上さま 参 人々御中
あんしやうより 与二郎」
→愛知県史資料編10「与二郎ひろ定請文」(本光寺常盤歴史館所蔵文書)
こちらの収穫より20俵を、来年より違反なく進上いたします。少しの未納もありません。そのまえに一筆差し上げます。
こゝもとなりかにて弐十俵、明年よりいらんなくしんしやう申へく候、すこしも無さた申ましく候、そのためこ一筆申候、かしく、
天文十三年 十一月十一日
ひろ定(花押)
(ウワ書)「(墨引)ふかうす殿御上さま 参 人々御中
あんしやうより 与二郎」
→愛知県史資料編10「与二郎ひろ定請文」(本光寺常盤歴史館所蔵文書)
こちらの収穫より20俵を、来年より違反なく進上いたします。少しの未納もありません。そのまえに一筆差し上げます。
大変勉強になります。あて先の『ふかうす殿御上さま 参 人々御中』は書状の出所が本光寺であるところから、深溝松平氏であることは肯けますね。御上さまは深溝殿のご夫人でしょうか。差出人は花押つきでひろ定とありますが、総じてひらがなが多く、本文が『かしく』で締めくくられておりますね。女手(ひろ定夫人?)で書かれた物のように見えます。
『あんしょうの与二郎ひろ定』なる人物が何者であるかは不明ではあります。通名の他に諱を持っているということと、文面がへりくだっている所をみると、安城松平氏の血統に連なる者ではなく、松平氏の被官で、安城に住している者とイメージしました。だとすると、仰せの通り天文十三年時点において安城は松平氏の領域だったと考える根拠とするに足るものだと思います。
気になるのは『明年よりいらんなく』、『すこしも無さた申すましく』と契約遵守の姿勢が強調されている所です。本年には違乱と無沙汰があったのかと勘ぐりたくなる部分で、天文九年の『安城乱中』の影響なのかもしれませんね。雑漠ですが、読ませていただいた感想を書かせていただきました。アップしていただいてありがとうございました。
レスありがとうございます。「御上様」は「おかみさん=夫人」でよいかと思います。私的な意味合いが強い仮名文になっているのは、宛先が女性だからで、差出人自体は『ひろ定』本人ではないかと推測しています。もし『ひろ定』室が書いたのであれば、そのように署名される筈なので……。
「ひろ定」が松平氏被官ではないかとのご説ですが、書札礼では被官が主人親類に送った物とは断定できないと思います。それより、「与次郎」の仮名を持つのが竹谷松平氏なのが気になっています(この頃は松平清善が当主)。実名が広定であったという傍証はないので、もしかすると別に与二郎広定がいた可能性もありますが、松平広忠と同時期に吉良義広の偏諱を受けたという説も捨てがたいです。
「違乱なく」・「少しも無沙汰申すまじく」はご指摘の通りで、何らかの事情で深溝への納税が滞っていた形跡が見受けられます。
ご不明な点やお気づきの点がありましたら、何なりとお書き込み下さい[にこっ/]