御寺領如来寺分附而大賀久衛門無躰之条々

一 あつかりめんとて押領之事、道閲御寄進より、一向さたもなき事、

一 五位分年貢弐百、同御寺領之田地を分而被取候事、殊せられやう不謂仕立之事、

一 大田五郎左衛門尉久敷作式押而奪取、道念ニ被預事、

一 四郎衛門尉手作之堀田押領之事、

一 大浜経仏雑紙分之手長被取放事、

 右、皆以無躰候、従此方聊も指南憑候ハす候、縦 西忠已来代官候共、機ニあひ候ハすハ、可召放候、台所入之近辺ニ候とて、押たる儀共候、殊更久々本寺・末寺共ニ御寺領・祠堂以下、万事不入之御判候、さて又酉年夏秋・戌之年夏、奉行衆を憑候而成ヶ共改候、其張にも此五ヶ条一向なく候、久兵衛尉も人数連判候、少も手を入させ申間敷候、能々任御異見申候、恐々謹言、

 三月十一日

大樹寺

納所(花押)

石見殿

中嶋新九郎殿

 参

→愛知県史 資料編10「大樹寺納所書状」(大樹寺文書)

道閲を松平長忠・西忠を松平親忠・酉年を1549(天文18)年に比定。

 ご寺領の如来寺分へ大賀久衛門が無理を言ってきた事柄について。一、預かり免と称して横領し、道閲のご寄進から一向に納付がないこと。一、大田五郎左衛門尉が直接管理していた堀田を横領したこと。一、大浜の経仏雑紙費用の手長を取り放たれたこと。
 右は皆もって無理なことです。こちらの指示は少しもありません。たとえ西忠以来の被官だったとしても、機に合わないのであれば解雇するでしょう。台所収入の近辺だということで抑えていたこともあるでしょうが、前々から久しく、本寺・末寺ともにお寺の領地・祠堂以下の万事に対し不入の判形があります。また、酉年の夏と秋、戌年の夏に、奉行衆を使って収穫を調べました。その折にもこの5か条は全くありませんでした。久兵衛尉も加え人々に連判させ、少しも改変させてはなりません。よくよくご意見にお任せいたします。

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