神山宿伝馬之儀付而、去未年以来、散在之者与伝馬屋敷相拘之者、依有申事今度遂裁許上、先年苅屋・笠寺出陣之時、如相定彼役屋敷拘来七間之者半分、散在之者半分充、打合可勤之、府中・小田原其外近辺所用之儀茂、如年来可相勤、於向後有難渋之族者、可加成敗之旨、可被申付之状如件、

永禄五 壬戌年

八月五日(印文「万歳」)

神山代官

名主武藤新左衛門尉殿

→静岡県史 資料編7「葛山氏元朱印状」(武藤文書)

 神山宿伝馬のことについて。去る未年(1559(永禄2)年)以来、散在の者と伝馬屋敷が抱える者から訴えがあったのでこの度裁許した上で、先年、刈谷・笠寺に出陣した時に定めた通りあの役は屋敷が抱えてきた7間税の者から半分、散在の者から半分を充てる。打ち合わせてこれを勤めよ。(駿河)府中・小田原その他近距離の用件であっても、年来の通り勤めるように。今後においては難色を示す者があれば成敗を加えるだろう。申し付けられたことはこの通りである。

 よく言われるのが「歴史上の人名は似たり寄ったりで覚えられない」。確かに、似ている名前が多い。上で挙げたように、父子で同じパーツを代々受け継ぐパターンもあるから。
 このほか、名前を似たものにする要素として、偏諱(へんき)という仕組がある。

名乗り【なのり】

(1)貴族や武士の男子が元服の際に,幼名や通称のほかに新たにつける名前(実名)。先祖代々使われる自分の家系を示す字(通字,系字)や,主人から一字(偏諱)を拝領したり,縁起の良い好ましい字が選ばれ,組合されたりした。

(2)自己の姓名・地位・身分などを口頭で述べること。内裏で宿直の殿上人らが名乗るのを名対面という。また武士は合戦に先立って先祖の勲功や自己の出身などを述べた。

→岩波歴史辞典

 武士の偏諱を説明しているのは、(1)の後半部分。
 主人というのは上司のこと。たとえば後北条氏の場合、氏綱の家臣には『綱~』という名前が多く、氏康の家臣には『康~』というのが多い。偏諱を受けるというのは、ある種親密な上下関係を持っている場合に多いようだ。
 このほか、元服の際に登場する烏帽子親という擬似的な保護者から、字を貰うことがある。
 少し複雑な例が甲斐武田氏の晴信。甲斐武田氏は実名の先頭に『信』をつけるパターンが伝統的に存在する。これを通字と呼び、代々本家が名乗るのが一般的。『信』の通字は信縄-信虎とつながってきたが、信虎の代になって将軍家とつながりができたようで、彼の嫡男は室町将軍足利義晴から『晴』を貰い受けることとなったようだ。上位者より貰った『晴』は名前の先頭に持ってくる必要があるので、『晴』+『信』となる。この晴信の嫡男が『義信』で、今度は室町将軍家の通字である『義』を貰えている。そこで『義』+『信』という組み合わせをとった。

其地在陣昼夜辛労無是非候、時分柄雖可為迷惑候、両国安危此時候間、各被相談一途遂本意候者快然候、猶々如水魚互談合肝要候、委細岡部次郎衛門尉可申届候、恐々謹言、

閏六月朔日

義元(花押)

松井兵庫助殿

→静岡県史 資料編7「今川義元書状」(臨済寺文書)

1539(天文8)年に比定。

 そちらの在陣、昼夜のご苦労は是非もありません。時節柄大変なこととは思いますが、両国の興亡は今にかかっていますので、それぞれ打ち合わせを密にされ本意を遂げられたら嬉しいことです。さらにまた、水魚の交わりのような談合が肝心です。詳しくは岡部次郎衛門尉が申し届けます。

就源五郎方帰国、各進退之儀、雖有訴訟、永不可還附、殊於松井者、当家奉公之筋目、 定光寺殿判形明鏡也、遠江国入国以来、父山城入道粉骨之条、直加扶助之段、為各別之間、不可及異論、然上者、知行・代官所并同心以下、是又不可有相違之儀、多芸与三郎・松井彦三郎・同惣兵衛・三輪四人衆・常葉又六・瀬上代官等、同心等之事、可為同前、弥可抽勲功之状如件、

天文九庚子年八月廿五日

治部大輔(花押)

松井兵庫助殿

→静岡県史 資料編7「今川義元判物写」(土佐国蠧簡集残編三)

 源五郎方の帰国について。それぞれの進退のこと、訴訟があるとはいえ、いつになろうと還付してはならない。特に松井は、当家への奉公が定光寺殿(今川範国)の判形で明確である。遠江国への入国以来父である山城入道が粉骨したので、直接扶助を加えたのは格別の行ないがあったからで、異論を挟んではならない。ということで、知行・代官所、ならびに同心以下は、こちらも相違があってはならない。多芸与三郎・松井彦三郎・松井惣兵衛・三輪四人衆・常葉又六・瀬上代官などと、同心たちのことも同じようになすこと。ますます勲功にぬきんでるように。

(印文「義元」)

今度伊豆江透山伏被預置之条、駿・遠両国山伏申付、無怠慢番等之事、逐次第可勤之、若於無沙汰之輩者、可加下知者也、仍如件、

天文十一 壬寅

九月四日

大内 安察使房

→静岡県史 資料編7「今川義元朱印状」(村山浅間神社文書)

 この度伊豆へ通る山伏を預かっておられる件、駿河・遠江両国の山伏に申し付けて、怠慢のないように、段階を追って番を勤めるように。もし放置する輩がいたら、下知を加えるように。

 武士の名前は結構複雑だ。今川氏親を例にとって見ていこう。
 まず、彼が6歳で父親を失った際に登場する名前は童名。

童名 → 龍王丸

 『丸』は童名でよく使われるが、これは省略されることもある。
 そして元服という成人式を経て、実名が与えられる。この名前をくれる人が烏帽子親(氏親の烏帽子親は不明)。後述する【偏諱】という通例によって、実名は烏帽子親から一字を貰う場合がある。氏親が偏諱を受けるとすれば、古河公方である足利成氏ぐらいしか思い浮かばないが、そうなると古河公方の対抗勢力である堀越公方との関係性は微妙である。

苗字 → 今川

実名 → 氏親

 これが基本パーツ。
 実名と同時にもらえるのが仮名(けみょう)。氏親は『彦五郎』だった。今川家の当主は『五郎』が多い。
 手紙などでは、今川五郎といったり氏親といったりする。手紙だと、省略した名前を自分にも他人にも使ったりする。織田氏の例だが、木下藤吉郎(秀吉)を『木藤』、明智十兵衛(光秀)を『明十』といったりする。
 そして、これに官途名(かんとめい)という役職名が加わる。氏親は、治部大輔・修理大夫・上総介の役職名を持っている。この官途名は勝手に名乗る人が多い。氏親は一応正式に認可されているはず(未確認ではあるが、今川氏という家格の高さから、勝手に名乗る可能性は低い)。
 また、修理大夫という名前を中国風に読んで『匠作』と呼ばれたりする。
 そして、出家した際に名乗る名前がある。氏親は、紹僖と名乗っていた。そして死んだ後の戒名が喬山。喬山公と言われたり、菩提寺の名前をとって『増善寺殿』と呼ばれたりしていた。つまり、今川氏親という人物は以下の名前を持っていることになる。

氏:源

姓:朝臣

苗字:今川

童名:辰王丸・竜王丸

仮名:彦五郎

実名/諱:氏親

官途名:治部大輔・修理大夫・上総介

唐名:匠作(修理大夫)

出家名:紹僖

戒名:喬山紹僖大禅定門

菩提寺名:増善寺殿

(印文「義元」)

遠州棚草紅林次郎左衛門・同名右京亮、数年過分令未進之間、雖遂催促、不許容之間、以公方人令催促之処、一向未進無之由企訴訟之条、遂裁断之上、令致年来之勘定処、両人前七拾貫余之未進明鏡也、然上者両人構虚言企訴訟之段、為曲事之間、郷中追払、至于名職等者、新百姓可申付、若彼両人就令郷中出入者、堅可申付、然者郷中許容之輩共可追払者也、仍如件、

天文廿四 乙卯

  五月十四日

   村松源左衛門尉殿

   高林藤左衛門尉殿

→静岡県史 資料編7「今川義元朱印状」(静岡市有東 長谷川文書)

 遠江国棚草の紅林次郎左衛門・同じく右京亮は、数年間税を滞納し催促しても応じなかったため、公方人を使って催促したところ、滞納は一切ないとのことで訴訟を起こした。裁断を行なうため年来の決算を行なったところ、両名が70貫余りを滞納していることは明白となった。両人が虚偽の申し出をして訴訟したこととなり、曲事である。郷から追い払い、名職などは新たな百姓に申し付けるように。もしあの両人が郷を出入りするならば、堅く申し付けて、郷で手引きする輩も共に追い払うものである。

三浦左京亮知行仁田村之年貢員数、米弐百壱俵弐斗、代物弐貫文地之事
   此外壱石壱斗一[二]升高尾江元政寄進之間、永除之也、

右、左京亮知行、数年依旱魃令困窮、借銭・借米為過分之間、彼知行五百弐貫拾文仁売渡、進退可続之由、達而令訴訟之条、不準自余買得之儀[売渡段]、領掌畢、一円買得之上者、永為私領可所務、年貢以下百姓等令難渋者、為地頭計新百姓可申付、然間[者]左京亮永代致同心、可走廻、若彼地増分就令出来者、無相違遂所務、随其分限得可加増、但陣番知行役之事、為幼少之間、以名代可勤之者也、仍如件、

   天文廿四

    七月六日

     治——

      遠藤楠鍋

→静岡県史 資料編7「今川義元判物写」(三浦文書)

 三浦左京亮の知行地である仁田村の年貢数量、米201俵2斗、代物2貫文のこと。このほか1石1斗2升高尾へ元政が寄進したため永代で除外する。
 右は、左京亮の知行で数年の旱魃により困窮して銭と米を過剰に借りたので、あの知行502貫10文で売り渡し、進退が続けたいとのこと。たっての訴訟とのことで、特別に売買を承認する。一円を買得した上は、末永く私領として所務するように。年貢で百姓が出し渋るならば、地頭の判断として新たな百姓を申し付けるように。ということで左京亮に永代同心して奔走するように。もしあの土地に増収ができたら、相違なく所務を遂げ、その分限に従って加増を得るように。但し、陣番の知行役については、幼少の間は代理人が勤めること。

御知行仁田村員数之事
合弐百拾九俵壱斗三升、

同弐貫文代物、此外ニ壱石壱斗弐升地高尾三浦左京亮殿御寄進、永代除之、

右、永代買徳申候、然上者、永御同心ニ参可走廻候、此上者、彼地一円ニ御綺有間敷候、為知行可致所務候、殊ニ御上意様より御判形被為請申、被下候上者、知行役・陣番・御普請等無相違可勤申候、為其親子三人之判迄、以此一札申上者、少も如在有間敷候、仍如件、

天文廿四 乙卯年七月六日

村松九左衛門尉 正久(花押)

同左衛門九郎 綱吉

くすなへ丸

三浦左京亮殿参

→静岡県史 資料編7「村松正久等連署契状写」(三浦文書)

知行である仁田村の員数のこと。都合219俵1斗3升。同じく代物2貫文。このほかに高尾の1石1斗2升の土地。三浦左京亮殿のご寄進。これを永代除外する。
右は、永代で買得いたしました。ということで、末永くご同心として参陣し、奔走するでしょう。この上は、あの地一円に争論はありえず、知行として所務するでしょう。特にご上意様からご判形を申請して発行された上は、知行役・陣番・普請役などは相違なく勤めるでしょう。そのため親子3人の判をもってこの1札で申し上げます。少しも手抜かりはありえません。

七月七日治部当座 聖護院門跡御座也、内々東と和与御扱之由也、然間当国へ御下向之間、彼会へ入候也、河つらと詠けるを、河つらとハ今河家ニ禁也、同嶋も禁也、殊新嶋一段不吉、

七夕霞

霞にもむせふはかりに七夕のあふ瀬をいそく天の河岸

→静岡県史 資料編7「為和集」(宮内庁書陵部所蔵)

 7月7日治部大輔の座にて、聖護院門跡がご同席。内々で東(後北条氏)との和睦交渉をなさっているそうだ。そこで当国(駿河国)に下向し、あの会合に出た。「河つら」と詠んだのだが「河つら」は今川家では禁句である。同じく「嶋」も禁じられている。特に「新嶋」は一段と不吉となる。(和歌部分略)