神山宿伝馬之儀付而、去未年以来、散在之者与伝馬屋敷相拘之者、依有申事今度遂裁許上、先年苅屋・笠寺出陣之時、如相定彼役屋敷拘来七間之者半分、散在之者半分充、打合可勤之、府中・小田原其外近辺所用之儀茂、如年来可相勤、於向後有難渋之族者、可加成敗之旨、可被申付之状如件、
永禄五 壬戌年
八月五日(印文「万歳」)
神山代官
名主武藤新左衛門尉殿
→静岡県史 資料編7「葛山氏元朱印状」(武藤文書)
神山宿伝馬のことについて。去る未年(1559(永禄2)年)以来、散在の者と伝馬屋敷が抱える者から訴えがあったのでこの度裁許した上で、先年、刈谷・笠寺に出陣した時に定めた通りあの役は屋敷が抱えてきた7間税の者から半分、散在の者から半分を充てる。打ち合わせてこれを勤めよ。(駿河)府中・小田原その他近距離の用件であっても、年来の通り勤めるように。今後においては難色を示す者があれば成敗を加えるだろう。申し付けられたことはこの通りである。