山口平八死迹之下地之儀、不及巨細候へ共、如前々、無御相違可被引得候、於後々違乱煩之儀有間敷候之件、

天文拾九年 庚戌 五月十日

津坂源四郎 秀長(花押)

笠寺 東光坊

→愛知県史 資料編10「津坂秀長証状」(東光院文書)

 山口平八遺領の下地のこと。詳細は把握していないが、前々の通り、ご相違なく引きとられるように。後々の違反や争議があってはならない。

長沢城、三河被属御本意候間之儀、駿遠之人数一円ニ可被渡置之由申付而、御書申調進之候、誠々御神妙之至、不及是非候、雪斎其国事候条、諸事御談合尤候、猶期来音候、恐々謹言、

九月十六日

朝比奈左京亮 泰能 判

牧野田三郎殿

     まいる 御宿所

→愛知県史 資料編10「朝比奈泰能書状写」(松平奥平古文書写)

1550(天文19)年に比定。

 長沢城について、三河国が領有化されたので、駿河国・遠江国の軍勢一円に渡されるとのことを申し付け、御書面を調整して提出されました。本当に神妙の至りで是非に及びません。太原崇孚がその国事ですから、諸事ご相談されるのがよいでしょう。さらにご連絡をお待ちします。

今度以忠信之儀、被出身血、無二可有御奉公之由御申、誠御勲功之至候、仍長沢之事、国一途之間者、駿遠御人数在城可被仰付由、是又別而御入魂御申、御祝着候、於静謐之上者、如先日御約諾可被渡置候、若又彼地始終御所望之儀候ハゝ、改替可被仰付候、不可有別儀候、就中松平三助・山田源助両人之事者、以前以御扱如此成来候、其時被仰合之儀候、可有御同陣候、是又不可有御違背候、心得申候、恐々謹言、

九月十九日

乗連 判

崇字 判

牧野田三郎殿

   御宿所

→愛知県史 資料編10「太原崇孚・飯尾乗連連署書状写」(松平奥平家古文書写)

1550(天文19)年に比定。

 この度の忠信について、自ら出血されて無二の奉公をされたとのことを申し上げました。本当に勲功の至りです。長沢の事。国の大事に際して、駿河・遠江国の軍勢が在城を申し付けられたそうで、これもまた特別に親しく申され、ご祝着です。平時になったなら、先日の約束のように渡されることでしょう。もしあの地を永く所望されるようであれば、替わりの地を仰せつけになるでしょう。異存のないように。とりわけ松平三助・山田源助のことは、以前に調停をもってこのような状況になりました。その時に合流を仰せられたので、ご同陣するように。これもまた、背くことがあってはなりません。心得て下さい。

広忠出置候給恩之事、右任彼定員数、無相違可令所務、弥如広忠時可抽奉公者也、仍如件、

天文十九年

十月十二日

よしもと 袖判

筧平三とのへ

→愛知県史 資料編10「今川義元判物写」(譜諜余録)

 広忠が拠出した給恩のこと。右はあの員数に任せて相違なく徴税すること。広忠の時のようにますます奉公にぬきんでるように。

就鵜津山縁辺之儀、八大夫方被差越候、因茲鵜津山江被成御奉書候、然者年内御祝言目出此事候、何様重御吉事可申入候、次長沢両人就御判形頂戴様躰承候、御状之趣、朝丹へ我等存分申、今日十四 御屋形被成御湯治候、被仰越候段者涯分可申候由候、乍去当年者無余日之間、来春一途可有之候、公事之儀者、互是非不可有私候、猶八大夫方委細可被申候条、不能詳候、恐々謹言、

十二月十四日

三浦 氏員 判

牧野出羽守殿

→静岡県史 資料編7「三浦氏員書状写」(松平奥平家古文書写)

1550(天文19)年に比定。

 鵜津山への縁談のこと。八大夫方より連絡があり、それにより鵜津山へ御奉書ができました。年内の祝言はおめでたいことです。どのような吉事を重ねて申し入れましょう。次に長沢両人について、御判形を頂戴した様子は承りました。書状の内容は朝比奈親徳に私が考えを伝え、今日14日は御屋形が湯治ですから、仰せになったことは可能な限り伝えたとのことです。ではありますが、今年も残り少なくなっていますので、年明け一気に行ないましょう。裁判のこと、互いの是非に私見はないでしょう。さらに八大夫が詳しく申すでしょうから詳しくは書きません。

御同名八大夫殿御越候、委細承候、仍山田源助御判形給、御知行之内より万疋可請取之由被申候哉、愚僧事、就善得寺造営、昨日迄河原ニ候へハ、今朝承驚入候、殊山源五六日以前河原へ被越候間、其時ハ以別事対談候、此訴訟之事、愚僧ニ一言も不被申出候、衣鉢三安云々、不存候間、不及押置候、如何様之申掠ニ候哉、御判形被出候、不審ニ候、朝丹無疎意候、諸老も別儀不被存候、涯分可被申立候、定依申掠一端被仰出候哉、於御心中有御疎略間敷候、尚口上申候、恐々謹言、

   就高橋雑説、自最前岡崎筋御馳走、御陣労察存候、

十二月十五日

林際寺 崇字 判

牧野出羽守殿 御返報

→静岡県史 資料編7「太原崇孚書状写」(松平奥平家古文書写)

1550(天文19)年に比定。

 同姓八大夫殿がお越しになり、詳しく承りました。山田源助が御判形を受け、あなたの知行から1万疋を受け取ったとのことを申されたのでしょうか。愚僧は善徳寺の造営で昨日まで河原におりましたので、今朝聞いて驚いています。特に山田源助は5~6日前に河原へ来ていて、その時は別の件を話していました。この訴訟のこと、愚僧には一言も言いませんでした。衣鉢三安うんぬんと。存じなかったので、確保には及びませんでした。どのような不正訴状でしょうか。御判形が出されたとのこと、不審です。朝比奈親徳に疎意はありません。諸家老も異義はありません。可能な限り起訴すべきでしょう。恐らく不正訴状によって一旦仰せ出されたものでしょうか。最前より岡崎方面で奔走され、ご陣労察しております。

先日預御状候、祝着至候、御書中趣具承届候、長沢両人従屋形判形被出置候段、蒙仰候、就其来春早々有御参府、様躰可有御申候由尤候、理非之段者可為明鏡候間、屋形ニも紛有間敷候条、可御心安候、涯分我等も存分可申候、朝丹御奏者成候間、是又疎略不可有之間、令談合、御下之上者助言可申候、猶八大夫方可有伝語候条、不能詳候、恐々謹言、
十二月十五日
葛山 氏元 判
牧野出羽守殿 御参報

→静岡県史 資料編7「葛山氏元書状写」(松平奥平古文書写)

1550(天文19)年に比定。

 先日書状を預かりました。祝着の至りです。ご書中の要旨詳しく承りました。長沢両人が屋形より判形を出されたこと、仰せを伺いました。それについては、来年早々に駿府へ参上し状況を申し上げるとのこと、ごもっともです。事の理非は明確ですから、屋形に間違いがある筈もないので、ご安心下さい。私も可能な限り思うところを伝えるでしょう。朝比奈親徳が取り次ぎをしており、これもまた疎略になることはないでしょうから、話し合われて、駿府へ行く上は助言してくれるでしょう。さらに八大夫方にご伝言をお願いしましたので、詳しくは申せません。

笠覆寺領参銭等之事、誰々雖申掠候、備後守并三郎任先判之旨、不可有相違者也、仍状如件、

天文廿

九月廿日

勘十郎 信勝(花押)

熱田 座主御坊

→愛知県史 資料編10「織田信勝判物」(密蔵院文書)

 笠覆寺領地の賽銭のこと。誰が不正訴状を提出したとしても、備後守と三郎が先に出した判形の内容の通り、相違がないように。

大瀬古之余五郎跡職座之事、永代買得之儀、委細勘十郎理申候条、無別義申付候、然上者、於末代無相違可有智行者也、仍状如件、

四月十日

信長(花押)

賀藤左助殿

→愛知県史 資料編10「織田信長判物」(加藤家文書)

 大瀬古の余五郎遺産の座のこと。永代購入の件、詳細は勘十郎が説明していますので、異存なく申し付けます。この上は、末代まで相違なく知行するように。