物語空間における破綻は既に開陳した通りだが、現在の世上で『信長公記』が1級史料として流布している以上、本サイトでは何故史料として扱わないかを明言しておく必要があるだろう。虚構としてすら破綻していることは示したので今更理由を出さなくてもよいという判断もあるが、念のため以下に記述する。
1)年次を誤った点
 実はこの点が史料としての信頼性を著しく損ねていると考えている。『信長公記』が信憑性が高いとされる根拠として、筆者とされる太田和泉守が1560(永禄3)年より前に成人していた人物であるという奥書がある(『信長公記を読む』40頁)。同奥書によれば太田和泉守は1527(大永7)年生まれ。1560(永禄3)年当時33歳だった太田和泉守が、8年もの記載ミスをするだろうか。
 後世の異筆で誤った年次を入れたという説も目にしたが、3箇所も入っている上干支まで毎回記載している後筆は異例である。更に、文頭1箇所を除く2箇所の年月日書き込みが、筋の盛り上がりに関連していることから後筆とも考えにくいのではないか。
 これを記述したのが太田和泉守晩年のことで記憶違いをしていた可能性もある。ただ、もしそうなら「他の記述もどこまで記憶できていたのか」という根本的な不安が生じる。この叙述を読むか聞くかした人物たちは、今川義元が敗死した合戦が8年遡って1552(天文21)年となっても気づかなかったことから考えても、年代的な隔たりを感じる。
2)低湿地から丘陵地を攻めて勝っている点
 暴風雨の直後から、一瞬で45,000の今川方が崩壊しているのに、何の説明もない。具体的には以下の部分である。

空晴るゝを御覧じ、信長鎗をおつ取つて、大音声を上げて、すは、かゝれゝゝと仰せられ、黒煙立て懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはつと崩れなり。弓、鎗、鉄炮、のぼり、さし物等を乱すに異ならず、今川義元の塗輿も捨て、くづれ逃れけり。

 天文廿一年壬子五月十九日

 旗本は是れなり。是れへ懸かれと御下知あり、未の刻、東へ向つてかゝり給ふ。初めは三百騎計り真丸になつて義元を囲み退きけるが、二、三度、四、五度、帰し合ひゝゝ、次第ゝゝに無人になつて、後には五十騎計りになりたるなり。

 雨上がりに「黒煙立てて」もないだろうと思うが、それは修辞だとしよう。前後の脈絡を除いてしまえば、織田・今川の戦いは「黒煙立て懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはつと崩れなり」で終わりである。後は掃討戦が展開するのみで、2,000人足らずの織田方に追い立てられる45,000人の今川方の姿がある。
 この奇妙な叙述を説明するため、小瀬甫庵に始まって現代の戦国史研究者に至るまでが延々と頭を捻ってきた。迂回奇襲説・謀略説・略奪散開時の奇襲説など多数が議論されてきたが、そろそろ『信長公記』自体を疑い始めてもよいのではないだろうか。『信長公記』が語る本能寺での信長の最期の様子も、別史料である『本城惣右衛門覚書』とは様相を違えている。
 このような考えに基づいているからこそ、私は本サイトでの仮説構築に『信長公記』は用いない。『桶狭間合戦』の呼称も同書によるものだから、その記述を信頼していない以上、本サイトではこの合戦を『鳴海原合戦』(今川氏真書状より)と呼ぶべきではある。ただ、管見の限りでは『桶狭間合戦』のほうが一般的であるため、『鳴海原(桶狭間)合戦』と記載しようと考えている。

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