『信長公記』の内容を探るため、『信長公記を読む』という書籍を参照したが、若干気になる箇所を発見したので備忘しておく。同書40頁にて太田牛一の来歴が記載されている。

太田牛一は、『信長公記』池田家文庫本巻十三の奥書に「慶長十伍二月廿三日 太田和泉守/牛一(花押)/丁亥八十四歳」と記す。(中略)また加茂別雷神社文書中の、丹羽長秀が加茂社宛に出した永禄十一年から元亀年間(1570-73)頃の文書の筆跡が牛一のものであり、牛一が長秀の右筆であったことも判明している(染谷光廣
・一九九三)。天正十年(一五八二)に信長が死ぬと加賀の松任に赴いたというが、これも長秀が賤ヶ岳の戦いの後、勝家の旧領である越前一国と加賀能美・江沼二郡を与えられ、越前府中に住したのに随ったのであろう。

参考文献 染谷光廣「『信長公記』未載の信長関係の事跡について - 太田牛一は丹羽長秀の右筆だった -」米原正義先生古稀記念論文集刊行会編『戦国織豊期の政治と文化』続群書類従完成会、一九九三年

 ここで気になるのが、丹羽長秀の仮名/官途名である。実際の古文書には当たっていないが、『信長公記』と『戦国人名事典』によれば、丹羽長秀は五郎左衛門となっている。
 私が収集した史料に水野和泉守近守の寄進状があるが、ここに 水野近守の給人と思われる『丹羽五郎左衛門尉』の名前がある。1525(大永5)年の書状なので、長秀本人ではなくその祖父か父と思われる。つまり、水野近守-丹羽五郎左衛門尉-太田牛一という主従関係が想定される。別記するが『刈谷市史』に記述されているように、水野近守と信元で家系の断絶が考えられることから、丹羽長秀・太田牛一が織田信長に仕えることになった経緯も関係しているかも知れない。
 また、太田が『信長公記』首巻にて、1560(永禄3)年の『鳴海原(桶狭間)合戦』を8年巻き戻した理由にも、このつながりが関係している可能性がある。今後の課題である。
※『戦国人名事典』によると、丹羽長秀の家は代々斯波氏に仕えていたが、1550(天文19)年から織田信長に仕えたという。生没年は1535(天文4)年~1585(天正13)年となっている。
※太田牛一が水野近守の陪臣だったとするならば、その官途名が同じ『和泉守』であることにも因縁が感じられる。

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