「謹奉納願書之事」

一 三年之間毎月可奉参詣事

一 万度可申事

   今度駿・豆両国之取合、氏康如存可被為遂本意候、於其上者、右之二ヶ条、急度可奉果行者也、

天文乙巳十月十日

平氏康敬白

奉献 八幡大菩薩 御宝殿下

→鎌倉市史 史料編「北条氏康願文」(鶴岡八幡宮文書)

1545(天文14)年に比定。

 一、三年間毎月参詣を行なうこと。一、何度も申すべきこと。今後、駿河国と伊豆国での取り合いで、氏康が本意を遂げられるようなら、その上は右の2か条を急ぎ執り行なうことだろう。

    (今川氏親花押)

「■制」

於鶴岡宮中、当手之軍勢甲乙人等、致濫妨狼藉之事、

 右、有違犯之族者、速可処罪科者也、仍如件、

永正元年九月日

→鎌倉市史 史料編「今川氏親禁制」(鶴岡八幡宮文書)

 禁制(禁止条項)。鶴岡八幡宮中において、当方の軍勢とその関係者が乱暴狼藉を行なうこと。右に違反した者は速やかに断罪する。

「奉寄 鶴岡八幡宮」

相模国東大友半分 松田左衛門尉跡、 事

右、為当社領、所令寄附之状如件、

寛正三年十二月廿一日

左馬頭源朝臣(花押)

→鎌倉市史 史料編「堀越御所 足利政知 寄進状」(鶴岡八幡宮文書)

鶴岡八幡宮への寄進を奉る。相模国の東大友半分(松田左衛門尉の跡地)。右をこの社領として寄附する。

就拙者手前不罷成、鎌倉屋敷上下共ニ、御好味与申、貴辺へ渡置申候、為此替兵粮卅三俵請取申候、彼屋敷為先御証文、永代遣之置候上者、不可有別条候、為後日、一筆遣之置候者也、仍如件、

天正十六年 戌子

霜月十五日

蔭山長門守(花押)

肥田越中守殿 参

→鎌倉市史 史料編「蔭山氏広証文」(雲頂庵文書)

私のやり繰りがまかりならなかった件で、鎌倉の屋敷を上下ともに誼によってあなたへお渡しし、その代価として兵糧33俵を受け取りました。あの屋敷は先の証文のためずっと渡したままにするものであり、別条があってはなりません。後日のため一筆書き置きます。

今度信玄出張之刻、野伏以下相集、抽走廻之由、諏方部主水助申上候、誠以感悦候、弥向後武具等相嗜、走廻ニ付者、可扶持者也、仍如件、

元亀ニ年 辛未

極月三日

氏邦(花押)

高岸対馬守殿

→戦国遺文 後北条氏編「北条氏邦感状」(高岸文書)

 この度信玄が出撃してきた際、野武士などを集めて素晴らしい活躍を見せたとのこと。諏訪部主水助が申し上げてきました。本当に素晴らしいことです。今後もますます武具などを準備して活躍していただければ扶助を与えましょう。

今度自房州、越上州へ候使両三人搦捕候、先代未聞忠節候、定而重而可通候間、涯分可〓(身+忍)候、仍太刀一腰助包、遣之候、并為給恩貮十貫文、永可充行者也、仍如件、

六月十一日

氏康(花押)

匝嵯殿

→戦国遺文 後北条氏編「北条氏康書状」(保阪潤治氏所蔵文書)

1545(天文14)年に比定。

 この度安房国から越後・上野国への使者3名を捕縛したこと、前代未聞の忠節です。きっと重ねて通るでしょうから、更に励んで下さい。助包の太刀1腰を進呈し、ならびに給恩として20貫文を末永く与えます。

夫丸二疋二人召仕様事、

 貮疋二人 一番 仁田

 貮疋二人 二番 同所

 貮疋二人 三番 同所

/壱疋一人 四番 /同所

\壱疋壱人    \奈古屋

 壱疋一人 五番 /中条

 壱疋一人    \山木

  以上、貮疋貮人、落合之夫替被借下者也、

右夫丸、十日充相勤、其次之番ニ相渡、可罷帰旨、諸郷へ被仰付間、堅申付、無懈怠様ニ可召仕、若無沙汰之在所有之者、請御意、過銭之儀可申付者也、仍如件、

壬申

十月五日

大藤式部丞殿

→戦国遺文 後北条氏編「北条家朱印状」(大藤文書)

1572(元亀3)年に比定。

 人足2疋・2人を雇用することについて。2疋・2人の1~3番が仁田、4番は1疋・1人ずつ仁田と奈古屋、5番は1疋・1人ずつ、中条と山木。以上の2疋・2人は落合の夫丸の替わりとして借り下した者である。右の人足は、10日間勤務して次の番に交代し帰還する旨を諸郷へ指示しているので、今回も堅く申し付ける。怠けることなく働くように。もし何もしない者がいた場合は、上意を受けて罰金を指示する。

就氏真帰国、家康へ以誓句申届処、御返答之誓詞、速到来本望候、殊氏真并当方へ無二可有御入魂由、大慶候、就中懸河出城之刻、其方至于半途為証人入来之由、誠以手扱喜悦候、自今以後者、家康へ別而可申合候条、可然様ニ馳走任入候、仍馬一疋黒進之候、猶弟助五郎可申候、恐々謹言

五月廿四日

氏政(花押)

酒井左衛門尉殿

→戦国遺文 後北条氏編「北条氏政書状」(致道博物館所蔵酒井文書)

1569(永禄12)年に比定。

 氏真の帰国について、家康へ誓句を届けたところ、返答の誓詞が早速到着して本望に思っています。特に氏真と当方に対して、無二の昵懇があるとのことで、喜ばしいことです。掛川城を出る際、そちらの人質が途中まで入来していたと聞きます。本当にお気遣いに喜んでいます。今から以降は、家康には格別にご相談しましょう。しかるべくように奔走すること、お任せします。黒毛の馬を1疋進呈します。さらに弟の助五郎(氏規)が申し上げるでしょう。

忘思慮染一翰意趣者、今度息氏郡、越相一和之儀申届候処、預懇切之回報、本望至極候、相甲及破題目者、武田信玄多年氏政在入魂、数枚之誓句取替、忽打祓、旧冬十三不謂駿府へ乱入、今川氏真無其構、至于時、被失手之間、遠州懸川之地被移候、愚老息女不求得乗物躰、此恥辱難雪候、就中今川家断絶、歎ヶ敷次第ニ候、此時越ヲ可頼入所存、父子共落著、然者任承三ヶ条之筋目、以証文可申届候、愚老当地在城之間、先令啓候、願者越御同意之様、各馳走所希候、恐惶謹言、

正月二日

左京大夫

  氏康

松本石見守殿

河田伯耆守殿

上野中務少殿 御宿所

→戦国遺文 後北条氏編「北条氏康書状写」(歴代古案一)

1569(永禄12)年に比定。

 思慮を忘れて手紙を書き出します。この度、息子の氏邦が越後と相模の和議を申し出たところ、丁寧なお返事を預かりました。本望の至りです。相模と甲斐が題目のように破談となりました。武田信玄は多年氏政と昵懇で数枚の誓句を交換していましたが、それをあっという間に反故にして前の冬の13日に大義名分もなく駿府へ乱入、今川氏真は防御もできず、手段を失って遠江国掛川の地へ移りました。私の娘は乗物も得られませんでした。この恥辱はすすぎがたく、とりわけ今川家の断絶は嘆かわしいことです。この時節は越後を頼みとする所存で父子ともに落着し、承った三箇条の条項に従って証文をお届けます。私はこの地の城内におりますので、まずはご連絡します。願いは越後の同意ですから、それぞれ奔走いただけるようにお願いします。

就駿軍鉾楯、氏真至于熊河地退出、因茲駿遠両国悉敵対之割、抛身命、任下知凌海陸之難所、数百里無相違懸川相移、城内堅固ニ持固、百余日被被籠城、終氏真并御前御帰国候、誠以忠信無頭、高名之至、無比類候、仍太刀一腰并五萬之地遣之候、仍状如件、

永禄十二年己巳

五月廿三日

氏政(花押)

清水新七郎殿

→戦国遺文 後北条氏編「北条氏政判物写」(古証文五)

清水一岳氏所蔵本状写から1569(永禄12)年に比定。

 駿河での戦闘状況について、氏真が熊河(掛川)の地へ退却し、このことで駿河・遠江の両国ことごとくが敵対した際、身命をなげうち、下知に従って海陸の難所を越え数百里の道を間違いなく掛川に移動、城内を堅固に守備して百余日籠城し、ついに氏真と夫人を帰国させました。本当に忠信は並ぶものがなく、高名の至りで比類がありません。太刀1越と5万疋の領地を進呈します。