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北条氏康、上杉輝虎家臣に武田氏の駿河侵攻を報告する

忘思慮染一翰意趣者、今度息氏郡、越相一和之儀申届候処、預懇切之回報、本望至極候、相甲及破題目者、武田信玄多年氏政在入魂、数枚之誓句取替、忽打祓、旧冬十三不謂駿府へ乱入、今川氏真無其構、至于時、被失手之間、遠州懸川之地被移候、愚老息女不求得乗物躰、此恥辱難雪候、就中今川家断絶、歎ヶ敷次第ニ候、此時越ヲ可頼入所存、父子共落著、然者任承三ヶ条之筋目、以証文可申届候、愚老当地在城之間、先令啓候、願者越御同意之様、各馳走所希候、恐惶謹言、

正月二日

左京大夫

  氏康

松本石見守殿

河田伯耆守殿

上野中務少殿 御宿所

→戦国遺文 後北条氏編「北条氏康書状写」(歴代古案一)

1569(永禄12)年に比定。

 思慮を忘れて手紙を書き出します。この度、息子の氏邦が越後と相模の和議を申し出たところ、丁寧なお返事を預かりました。本望の至りです。相模と甲斐が題目のように破談となりました。武田信玄は多年氏政と昵懇で数枚の誓句を交換していましたが、それをあっという間に反故にして前の冬の13日に大義名分もなく駿府へ乱入、今川氏真は防御もできず、手段を失って遠江国掛川の地へ移りました。私の娘は乗物も得られませんでした。この恥辱はすすぎがたく、とりわけ今川家の断絶は嘆かわしいことです。この時節は越後を頼みとする所存で父子ともに落着し、承った三箇条の条項に従って証文をお届けます。私はこの地の城内におりますので、まずはご連絡します。願いは越後の同意ですから、それぞれ奔走いただけるようにお願いします。

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