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後北条氏、大藤式部丞に夫丸の徴発を指示する

夫丸二疋二人召仕様事、

 貮疋二人 一番 仁田

 貮疋二人 二番 同所

 貮疋二人 三番 同所

/壱疋一人 四番 /同所

\壱疋壱人    \奈古屋

 壱疋一人 五番 /中条

 壱疋一人    \山木

  以上、貮疋貮人、落合之夫替被借下者也、

右夫丸、十日充相勤、其次之番ニ相渡、可罷帰旨、諸郷へ被仰付間、堅申付、無懈怠様ニ可召仕、若無沙汰之在所有之者、請御意、過銭之儀可申付者也、仍如件、

壬申

十月五日

大藤式部丞殿

→戦国遺文 後北条氏編「北条家朱印状」(大藤文書)

1572(元亀3)年に比定。

 人足2疋・2人を雇用することについて。2疋・2人の1~3番が仁田、4番は1疋・1人ずつ仁田と奈古屋、5番は1疋・1人ずつ、中条と山木。以上の2疋・2人は落合の夫丸の替わりとして借り下した者である。右の人足は、10日間勤務して次の番に交代し帰還する旨を諸郷へ指示しているので、今回も堅く申し付ける。怠けることなく働くように。もし何もしない者がいた場合は、上意を受けて罰金を指示する。

コメント 5

  • はじめまして
    この大藤氏の文章は三方ヶ原合戦従軍の際の人足雇用ですしょうか。
    出陣後十日で交代するするんですね。
    非常に興味深いです。

  • こちらこそ初めまして。
    コメントありがとうございます。この書状はおっしゃるように三方が原合戦の前に出されたものと考えられます。ただ、https://old.rek.jp/index.php?UID=1212073411で記述されているように、三方が原合戦の前に大藤式部丞は戦線を離脱しています。
    陣夫は危険で負担が大きいことから忌避される嫌いがあり、後北条氏としても10日交代を厳守する落としどころが精一杯だったようですね。この辺りの史料も、機会がありましたらアップしようと思います。
    今後もどうぞ宜しくお願いします。

  • なるほど
    武田軍に援軍として出陣していたのは知っておりましたが、三方が原合戦の前に戦死していたことは知りませんでした。
    その4年前の信玄の小田原城攻囲の際には、おそらく多くの奴隷狩りにあっているだろうし、武田軍の援軍として陣夫に出ることに抵抗がある者も多かったでしょうね。
    私の住んでいるところが、たまたま同じく援軍として出陣していた中山勘解由家範の本拠なもので目に止まりコメントさせて頂きました。

  • とてつもなく遅いレスになってしまいました……。
    本日アップした書状(https://old.rek.jp/index.php?UID=1219943308)にありますが、10日間の在陣は「長陣」という認識があったようです。後北条氏の場合では「3日以内だから陣夫は不要」という書状もありますので、4~9日程度が通常の出陣期間だったと考えられます。
    中山氏の本拠というと、飯能ですか? 中山家範が遠江・三河遠征に加わっていたのは把握できていまえせんでした。参考になりました[にこっ/]

  • […] 若無沙汰之在所有之者、請御意、過銭之儀可申付者也 […]

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