「伊波知行之書立」
百九拾壱貫五百文 富田
九拾壱貫六百文 生沢
七拾壱貫文 宮分
四拾九貫六百卅二文 杉崎分
卅九貫百文 千津嶋之内 三浦分
以上四百四拾弐貫八百卅二文
此人数
廿八人 此内六騎馬乗 大学
廿八人 同 修理
以上五十六 此内十二騎馬乗
右、人衆之嗜、如此可致、毎陣両人互相改、厳密ニ可申付、少人衆不定、又者武具以下嗜至于無之者、其者を払、後年ニ者一人ニ可申付者也、仍如件、
弘治二年 丙辰
三月八日
伊波大学助殿
同修理亮殿
→戦国遺文 後北条氏編「北条家朱印状写」(相州文書所収大住郡武兵衛所蔵文書)
伊波の知行リスト。191貫500文が富田、91貫600文が生沢、71貫文が宮分、49貫632文が杉崎分、39貫100文が千津島の内の三浦分。以上442貫832文。この人数は28人(うち6騎が馬上)が大学、28人(馬上員数は同じ)が修理で合計56名(うち12騎が馬上)。
右の軍役の準備はこのようにせよ。陣ごとに両人が互いをチェックし、厳密に行なうように。少しでもあっても員数不足があったり、また武具など準備ができていない場合はその者を外し、どちらか1人に指示するようになるだろう。