善徳寺・天用院越進処、御入魂之由、本望候、殊越へ参苻之儀、余寒雪風之時節難叶付而、松石越山之由候、乍御大儀令満足候、薩埵陣中之様子、山之上之人数半覆へ蹈下之由申来候、去廿六息新太郎者共五六十騎、興津河原迄乗下、敵小荷駄送之人数江入馬、五十余人討捕由注進候、日ゝ戦無手透候、其口御遅ゝ、愚老苦労此節候、一日も早ゝ飯山辺へ御人数被打出候様、所希候、委細由信可為演説候、恐々謹言
追而、松石へ及一書候、被相届尤候、以上、
二月二十九日
氏康(花押)
河田伯耆守殿
上野中務少輔殿
→戦国遺文 後北条氏編「北条氏康書状」(上杉文書)
1569(永禄12)年に比定。
善徳寺と天用院経由でお話を進めました。両者と近しいとのこと、本望に思います。とくに越後府中へ行かれた件、寒雪風の時期で実現は難しかったところ、松本石見守が越山されるとのこと、大変なことだと思いますが、満足いたしました。薩埵の陣中の様子ですが、山の上の軍勢は『半覆』へ踏み下したと連絡が来ました。去る26日、息子の新太郎(氏邦)の部隊50~60騎が興津河原まで乗り降りて、敵の輸送部隊へ馬を入れました。50余人を討ち取りそのリストが来ました。日々戦闘に手抜きをせずにおります。そちら方面が遅々としているようですが、愚老の苦労はここにかかっています。1日も早く飯山近辺へ軍勢を出撃させていただけるよう、お願いいたします。詳しくは由良信濃守が申し述べてくれます。
追伸。松本石見守へ書状を送っています。お届けいただければ幸いです。